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京都の紅葉をひと目見ようと来られた方、その数は例年約630万人だと聞く。
紅葉の名所とガイドブックに案内されるところは、紅葉真っ盛りどころか人ごみ真っ盛りである。
繁華街以上のうんざりする混雑にもめげず、なぜに人は京都の紅葉見物に訪れるのだろうか。日本中到るところに紅葉はあるだろうに。
訪れたあとに、その魅力に感じたものをそれぞれに持ち帰っていただけるだろうか。
清水寺の紅葉といえば、舞台建築造の本堂を紅蓮の炎で包むかの紅葉を見せる。
桜の時期と同様に、その風景はTVや雑誌で取り上げられ、知らぬものはいない。
その舞台下の紅葉は色あせ、落葉が始まっている頃、混雑のピークも過ぎ自分の意思で歩ける位だろうと、名残の紅葉を楽しんだことがあった。
この日のお目当ては舞台下の燃ゆる紅葉ではない。拝観順路に示されていない見所で、そこは9割方の人が通らない静かな紅葉の景色で、色づきが舞台下南側よりも少々遅いところである。
仁王門前広場から東正面に向かって真っ直ぐ階段を上っていく群集を横目に、左手に進む。大講堂へ続く道である。清水寺に来てこの道を行く人は清水関係者しかいないかも知れない。緩いカーブの右手、北斜面の楓が赤い。土手には落ちたばかりの散紅葉も赤く、鮮やかである。
正面が大講堂で、右手が上り坂になる。大講堂の東裏は紅葉谷の名がついていて、その東が成就院へと連なっている。
東山の峰が手に届くところのように見える。斜め後ろに振り返ると朱色の仁王門の内側である。この日の空は真っ青であった。
石畳の坂をゆくと、青紅葉と緋色の楓がトンネルをこさえ、その先に橙色の木々の葉が行き止まりの壁のようである。成就院の池に張り出した楓だろう。
この坂をゆくと境内堂宇を北側から眺めることになる。南から射す太陽が錦繍の彩を教えてくれるところなのだ。
仰ぐ木々の葉の向こうには、三重塔、随求堂(胎内地蔵)、鎮守堂のフォルムが順番に浮かんでみえる。
立位置を変えると、堂宇の装いを替えることができる。実に楽しい。
真っ赤なドレスか黄橙のグラデーションか、思いのままである。まだまだ素晴らしい色づきを見せてくれていた。
これからだという楓が、紅と緑の斑模様になった華やかな葉を纏い手招きをする。その下にいって、早速目の前の堂宇に着せてみた。
坂の途中で暫くの時を過ごすこととなった。
紅葉谷越しに講堂の甍を眺められるところがある。成就院の左手のくぼみからである。道脇のお地蔵さん達に見送られて進む風情が、先の橙色を黄金色に変えている気がする。
成就院前の池に張り出した紅葉は絶景のひとつだが、終わりを告げているせいか、華やかさは失せ寂しさを感じさせられた。寄る年並の所為なのか、人生の悲哀と無常を教えているようにも映る。
それに比して、鬱蒼とした雑木林の中に色鮮やかに光り輝く紅葉を見せる紅葉谷は、前途洋々としている。しかし、これとて無常であって、色褪せ葉を落とすときがやって来ることを思った。
北総門から伽藍に入り、朝倉堂の前から轟門にやってくると、群衆が行列を為していた。時期遅れでもこれだけの観光客においでてただけるのだと驚いた。奥の院の方へ回る手もあるが、本堂に参拝してからにしたほうが良いと、行列に加わり廻廊を進み、参拝後お目当てのもう一箇所へと急いだ。
舞台東側の石段を音羽の滝へと降りるのである。その途中がポイントだ。
観光の方は奥の院に進まれるので、下りの石段には人が疎らである。
舞台の足下駄の真横である。綺麗だ。ほんとに綺麗だ。
光の技が名残の紅葉に命を吹き込んでいるようだった。
帰路、 緋色の雲海に浮かぶ楼閣を演出していた色褪せた楓が、見向きもされず冬支度をしている。
悲哀の思いで池の水鏡に映して、眺めてから帰ることにした。
その年の楓の発色は、急激な寒暖差の所為か、何処も数年来で一番いい艶やかな色を見せていた。更に天候にも恵まれ、陽光と発色の競演は実に見事なハーモニーを奏で、幾度も幾度も繰り返し美の感動を与えてくれた。
それは日常を忘れさせ、我らの身と心を、煌びやかな錦の光りに、華やかな緋色の中に引きずり込む。生きていてよかったと感じる一瞬である。
自然の造りだす偉大な美の中で、人の為す知恵のちっぽけさ、愚かさに気づき、太古より繰り返し生き続けている木々にひれ伏したくなる。
日頃の憂さや悩みも、不安さえもぶっ飛ばし、平然と泰然と、滅び行くまで生き続けていく強い意志へと、きっと導いてくれるであろう。
そのように自らの歩みを蘇らせてくれる力が、京都の紅葉狩にはあると断言できる。
諸々の世間の暮らす場所から離れ、日常を忘れる旅行や、転地療法での休息なら何処の地でも構わないが、尋常ならぬパワースポットをと秘かに思っておられるなら、小生は京都だと信じて今も疑っていない。紅葉狩なら尚更である。
それ故、薄っぺらな紅葉名所ガイドや駆け足紅葉見物のバス観光には複雑な思いを持つ。
お祭り気分や賑わしいのが苦手なわけではない。到って好きである。
しかし、時と場所を心得できない無作法な者が闊歩し、場の空気が乱されることに嫌悪感を抱くのである。
訪れる者、迎える者の何れもが心しなければ、パワースポットはただのテーマパークに成り下がる筈である。
京都がどういう町を目指すのかのビジョンと深く関わることであるから、行政や仏教界、観光業界が熟慮して貰いたいところだ。
6000万人にも届く勢いで観光客が増えていると浮かれることと、観光文化の質を高めることとの共存を為しえることが同慶の極みであるが、文化の質の声が聞こえにくく、数値目標だけが声高に響いてくるのはいかがなものだろうか。
先人の遺産を、収入のみに走り、食い散らかしにしては為らぬと思った。
清水寺
http://www.kiyomizudera.or.jp/
【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
紅葉の名所とガイドブックに案内されるところは、紅葉真っ盛りどころか人ごみ真っ盛りである。
繁華街以上のうんざりする混雑にもめげず、なぜに人は京都の紅葉見物に訪れるのだろうか。日本中到るところに紅葉はあるだろうに。
訪れたあとに、その魅力に感じたものをそれぞれに持ち帰っていただけるだろうか。
清水寺の紅葉といえば、舞台建築造の本堂を紅蓮の炎で包むかの紅葉を見せる。
桜の時期と同様に、その風景はTVや雑誌で取り上げられ、知らぬものはいない。
その舞台下の紅葉は色あせ、落葉が始まっている頃、混雑のピークも過ぎ自分の意思で歩ける位だろうと、名残の紅葉を楽しんだことがあった。
この日のお目当ては舞台下の燃ゆる紅葉ではない。拝観順路に示されていない見所で、そこは9割方の人が通らない静かな紅葉の景色で、色づきが舞台下南側よりも少々遅いところである。
仁王門前広場から東正面に向かって真っ直ぐ階段を上っていく群集を横目に、左手に進む。大講堂へ続く道である。清水寺に来てこの道を行く人は清水関係者しかいないかも知れない。緩いカーブの右手、北斜面の楓が赤い。土手には落ちたばかりの散紅葉も赤く、鮮やかである。
正面が大講堂で、右手が上り坂になる。大講堂の東裏は紅葉谷の名がついていて、その東が成就院へと連なっている。
東山の峰が手に届くところのように見える。斜め後ろに振り返ると朱色の仁王門の内側である。この日の空は真っ青であった。
石畳の坂をゆくと、青紅葉と緋色の楓がトンネルをこさえ、その先に橙色の木々の葉が行き止まりの壁のようである。成就院の池に張り出した楓だろう。
この坂をゆくと境内堂宇を北側から眺めることになる。南から射す太陽が錦繍の彩を教えてくれるところなのだ。
仰ぐ木々の葉の向こうには、三重塔、随求堂(胎内地蔵)、鎮守堂のフォルムが順番に浮かんでみえる。
立位置を変えると、堂宇の装いを替えることができる。実に楽しい。
真っ赤なドレスか黄橙のグラデーションか、思いのままである。まだまだ素晴らしい色づきを見せてくれていた。
これからだという楓が、紅と緑の斑模様になった華やかな葉を纏い手招きをする。その下にいって、早速目の前の堂宇に着せてみた。
坂の途中で暫くの時を過ごすこととなった。
紅葉谷越しに講堂の甍を眺められるところがある。成就院の左手のくぼみからである。道脇のお地蔵さん達に見送られて進む風情が、先の橙色を黄金色に変えている気がする。
成就院前の池に張り出した紅葉は絶景のひとつだが、終わりを告げているせいか、華やかさは失せ寂しさを感じさせられた。寄る年並の所為なのか、人生の悲哀と無常を教えているようにも映る。
それに比して、鬱蒼とした雑木林の中に色鮮やかに光り輝く紅葉を見せる紅葉谷は、前途洋々としている。しかし、これとて無常であって、色褪せ葉を落とすときがやって来ることを思った。
北総門から伽藍に入り、朝倉堂の前から轟門にやってくると、群衆が行列を為していた。時期遅れでもこれだけの観光客においでてただけるのだと驚いた。奥の院の方へ回る手もあるが、本堂に参拝してからにしたほうが良いと、行列に加わり廻廊を進み、参拝後お目当てのもう一箇所へと急いだ。
舞台東側の石段を音羽の滝へと降りるのである。その途中がポイントだ。
観光の方は奥の院に進まれるので、下りの石段には人が疎らである。
舞台の足下駄の真横である。綺麗だ。ほんとに綺麗だ。
光の技が名残の紅葉に命を吹き込んでいるようだった。
帰路、 緋色の雲海に浮かぶ楼閣を演出していた色褪せた楓が、見向きもされず冬支度をしている。
悲哀の思いで池の水鏡に映して、眺めてから帰ることにした。
その年の楓の発色は、急激な寒暖差の所為か、何処も数年来で一番いい艶やかな色を見せていた。更に天候にも恵まれ、陽光と発色の競演は実に見事なハーモニーを奏で、幾度も幾度も繰り返し美の感動を与えてくれた。
それは日常を忘れさせ、我らの身と心を、煌びやかな錦の光りに、華やかな緋色の中に引きずり込む。生きていてよかったと感じる一瞬である。
自然の造りだす偉大な美の中で、人の為す知恵のちっぽけさ、愚かさに気づき、太古より繰り返し生き続けている木々にひれ伏したくなる。
日頃の憂さや悩みも、不安さえもぶっ飛ばし、平然と泰然と、滅び行くまで生き続けていく強い意志へと、きっと導いてくれるであろう。
そのように自らの歩みを蘇らせてくれる力が、京都の紅葉狩にはあると断言できる。
諸々の世間の暮らす場所から離れ、日常を忘れる旅行や、転地療法での休息なら何処の地でも構わないが、尋常ならぬパワースポットをと秘かに思っておられるなら、小生は京都だと信じて今も疑っていない。紅葉狩なら尚更である。
それ故、薄っぺらな紅葉名所ガイドや駆け足紅葉見物のバス観光には複雑な思いを持つ。
お祭り気分や賑わしいのが苦手なわけではない。到って好きである。
しかし、時と場所を心得できない無作法な者が闊歩し、場の空気が乱されることに嫌悪感を抱くのである。
訪れる者、迎える者の何れもが心しなければ、パワースポットはただのテーマパークに成り下がる筈である。
京都がどういう町を目指すのかのビジョンと深く関わることであるから、行政や仏教界、観光業界が熟慮して貰いたいところだ。
6000万人にも届く勢いで観光客が増えていると浮かれることと、観光文化の質を高めることとの共存を為しえることが同慶の極みであるが、文化の質の声が聞こえにくく、数値目標だけが声高に響いてくるのはいかがなものだろうか。
先人の遺産を、収入のみに走り、食い散らかしにしては為らぬと思った。
清水寺
http://www.kiyomizudera.or.jp/
【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
5346-151029-秋
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