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以前にも触れたが、祇園祭の起源に遡ると、24日の還幸祭が最も重要な祭礼である。
17日の神幸祭で氏子町の御旅所においでになった神様が、単に八坂さんへお帰りになる日ではないからだ。
24日に御旅所を発輿(はつよ)された神輿は、氏子域を渡御し、神泉苑に向かわれ、疫病退散を願うお祀りをされるのである。
還幸祭の原点と真髄は疫病退散の御霊会であって、この日神泉苑にて東寺の僧侶による読経の迎えを受け、黒門三条の八坂御供社(やさかごくうしゃ)で祭典が執り行われるところに表されている。
お祀りを滞りなく終えると、中御座を先頭に三基の神輿は三条会商店街をあとに八坂神社へと向かう。このとき、御供社の角に挿されていた三本の「オハケ」は取り払われている。気づく人はほとんどいないが、オハケは祇園社の祭神の寄り代となるものである。
祇園祭の還幸祭は、貞観11年(869年)、疫病を鎮める祈りを込めて、卜部日良麿(うらべひらまろ)が神泉苑に66本の矛を立て、神輿三基を送り牛頭天王(ごずてんのう)を祀り、まさに御霊会を行った日である。
その還幸祭の付け祭として生まれたのが、山鉾風流の巡行で、後祭(あとまつり)を清め飾るものとなった。
後祭の巡行は、御霊会から約100年後の安和3年(970年)に、室町界隈で毎年行われるようになり、山鉾の数においては前祭(さきまつり)の半分以下であるが、山を出す鉾町は後祭の品格を自負していたと聞く。
現在前祭で巡行しているが、元来後祭で巡行していた山は、北観音山・橋弁慶山・八幡山・鯉山・役行者山・鈴鹿山・黒主山・浄妙山・南観音山である。
現在休み山で居祭を行っている大船鉾の加列が実現すれば、くじ取らずの殿(しんがり)となる。
前祭の殿は船鉾で「出陣の船鉾」、後祭の殿は大船鉾で「凱旋の船鉾」と呼ばれ、その順序は籤取らずの殿として古来より決められており、休み鉾となっても永年守られている。
山鉾は現在32基巡行しているが、山鉾連合会の理事の席は35席あり、休み鉾3基の席も未だ残されている。現実が変わろうとも易々と変えないのが伝統に生きるもの達の掟なのであろう。各鉾町の盛衰にかかわらず、誇りをもって復興加列を可能にならしめている。
それは山鉾の浮沈の歴史が教えた生きる智恵なのかもしれない。
ところが、突如後祭の巡行がなくなり、前祭の巡行に統一されるという事態が起こった。
昭和41年(1966年)、高山京都市長の辣腕ぶりに、その10年前の観光政策から巡行路を変更し御池通の観覧席収入を得、その補助金で面を張られた鉾町は、今度は交通渋滞緩和を大儀とする山鉾巡行の統一合体に、当時は応じざるを得なかった。
この時に始まったわけではない。例えば明治44年には、「市電敷設の架線が優先だから、山鉾巡行は止めていただきたい!」と、京都府知事の「巡行禁止令」までが出ていたという。
流石に町衆も黙ってはいず、日の出新聞の反対キャンペーンも手伝い、町中騒然となり、撤回させた歴史もある。
生産性向上という効率経済優先の価値観が、強権をもって、伝統や文化、人の心をないがしろにすることがまかり通り、自らが許した時代の話である。
しかし、後祭の山鉾巡行が無くなる事に危機を感じた町衆を始めとする庶民は、還幸祭にともなう後祭として「花笠巡行」を産みだしたのである。
それが現在に継承されている。
それは、「祇園祭花傘連合会」の結成となり、主に女性と子供達の手で、後祭の巡行の火を消さずに奉仕することとなったのである。
その約千人の巡行列は、山鉾巡行とは様相を異にし、非常に芸能的な色彩が濃く、花傘・祇園太鼓・獅子舞・祇園囃子・馬長・鷺祭などから構成された。
ただただ頭が下がる思いである。
なぜなら、祭礼行事のなかで人々が神と一体となって、神賑(かみぶるまい)を通じ、人知を超越した神通力をもって厄難退散を希(,ねが)い、神を歓待する心と信仰の意味をなしているからである。
その純で下向きな御霊会への町衆の思いは、必ずや牛頭天王(ごずてんのう)に届いているに違いない。
午前10時、京の夏を謳う幟旗が棚引く祇園石段下を、花傘巡行の行列が出発する。
先祓に氏子町の子供神輿が先導し、花傘巡行旗を先頭にまず神饌行列・花車・祇園太鼓と続く。
行列は囃子があると真に華やかに弾むものである。祇園太鼓の響きが体の芯に届いてくるからこそ、それに続く行列も見物できるものである。
八坂神社青年会旗が先導する花傘・金獅子・銀獅子・幌武者・高士・児武者が続く。どれもこれも色鮮やかで、形からして風流である。中でも幌武者・高士・児武者など珍しく特に面白い。
市中に住まう悪霊も、「何か?」と姿を表し、鉾(花傘)に捕りつかれ、牛頭天王に成敗されることは間違いないと思う。
徒歩(かち)の幌武者の背につけている大きな球形の布が幌(母衣)である。
球形の中は、竹、鯨ひげ、籐、柳の枝等で籠を作り、染め抜いた大きな柄布でその籠を包み、背中に着けたものであると聞いた。
後ろから飛んでくる矢や弾丸を防ぐ効果もあり、戦場では特別の役職など、目立つ必要がある武者の標識であったとか、幌武者は猛者の象徴として人気が高かったという。
平安時代末期から関ヶ原合戦頃までは多くの武者に使用され、他府県の祭事では、曳山や神輿を先導したり、出迎えたりしているようだ。
幌武者に続く騎乗の高士も何かと思う。背中に横棒で吊り下げた大きな袖は、嘘かと思うほどに奇抜である。
続く児武者は稚児のようであるが、雉(きじ)の長い尾羽根の飾りつけた粋な菅笠に、萌黄の狩衣姿の騎乗で凛々しい。ところが、背には色とりどりの花篭を背負っている。
どうみても風流を競っているとしか言いようがない。
この調子で説明していくと紙幅が足りない。
次の機会に譲るとして、花笠巡行は、庶民が祇園社の祭神とともに、心底から疫病厄病悪霊をこの地から祓わんとする願いの形であることは間違いない。
その庶民の心底からの願いを、車社会を優先させる交通行政の端に置いて良いものだろうか。交通事故の現場検証にとる時間での渋滞と比べれば、優先し、あるいは価値を置くものを見直す時がきていると信じて疑わない。
現代社会の盲点は、自然や宇宙を人間が支配できるという驕りから生まれている。そのことに誰もが既に気づいている筈だ。
このあと、馬長・六斎に続き、織商花傘・花傘娘・織商鉾・お茶屋組合花傘・小町踊(祇園東)・歌舞伎踊(先斗町)・花傘・さぎ踊・万灯踊花傘と、衣装も華やかに綺麗どころと娘さん達が沿道を賑わし、祇園囃子が最後尾で音曲を振舞うのを見送ることになる。
行列は、信号待ちで分断されていた。
なぜかマラソン選手は信号では止まらない。信号が赤から青に替えられているのである
17日の神幸祭で氏子町の御旅所においでになった神様が、単に八坂さんへお帰りになる日ではないからだ。
24日に御旅所を発輿(はつよ)された神輿は、氏子域を渡御し、神泉苑に向かわれ、疫病退散を願うお祀りをされるのである。
還幸祭の原点と真髄は疫病退散の御霊会であって、この日神泉苑にて東寺の僧侶による読経の迎えを受け、黒門三条の八坂御供社(やさかごくうしゃ)で祭典が執り行われるところに表されている。
お祀りを滞りなく終えると、中御座を先頭に三基の神輿は三条会商店街をあとに八坂神社へと向かう。このとき、御供社の角に挿されていた三本の「オハケ」は取り払われている。気づく人はほとんどいないが、オハケは祇園社の祭神の寄り代となるものである。
祇園祭の還幸祭は、貞観11年(869年)、疫病を鎮める祈りを込めて、卜部日良麿(うらべひらまろ)が神泉苑に66本の矛を立て、神輿三基を送り牛頭天王(ごずてんのう)を祀り、まさに御霊会を行った日である。
その還幸祭の付け祭として生まれたのが、山鉾風流の巡行で、後祭(あとまつり)を清め飾るものとなった。
後祭の巡行は、御霊会から約100年後の安和3年(970年)に、室町界隈で毎年行われるようになり、山鉾の数においては前祭(さきまつり)の半分以下であるが、山を出す鉾町は後祭の品格を自負していたと聞く。
現在前祭で巡行しているが、元来後祭で巡行していた山は、北観音山・橋弁慶山・八幡山・鯉山・役行者山・鈴鹿山・黒主山・浄妙山・南観音山である。
現在休み山で居祭を行っている大船鉾の加列が実現すれば、くじ取らずの殿(しんがり)となる。
前祭の殿は船鉾で「出陣の船鉾」、後祭の殿は大船鉾で「凱旋の船鉾」と呼ばれ、その順序は籤取らずの殿として古来より決められており、休み鉾となっても永年守られている。
山鉾は現在32基巡行しているが、山鉾連合会の理事の席は35席あり、休み鉾3基の席も未だ残されている。現実が変わろうとも易々と変えないのが伝統に生きるもの達の掟なのであろう。各鉾町の盛衰にかかわらず、誇りをもって復興加列を可能にならしめている。
それは山鉾の浮沈の歴史が教えた生きる智恵なのかもしれない。
ところが、突如後祭の巡行がなくなり、前祭の巡行に統一されるという事態が起こった。
昭和41年(1966年)、高山京都市長の辣腕ぶりに、その10年前の観光政策から巡行路を変更し御池通の観覧席収入を得、その補助金で面を張られた鉾町は、今度は交通渋滞緩和を大儀とする山鉾巡行の統一合体に、当時は応じざるを得なかった。
この時に始まったわけではない。例えば明治44年には、「市電敷設の架線が優先だから、山鉾巡行は止めていただきたい!」と、京都府知事の「巡行禁止令」までが出ていたという。
流石に町衆も黙ってはいず、日の出新聞の反対キャンペーンも手伝い、町中騒然となり、撤回させた歴史もある。
生産性向上という効率経済優先の価値観が、強権をもって、伝統や文化、人の心をないがしろにすることがまかり通り、自らが許した時代の話である。
しかし、後祭の山鉾巡行が無くなる事に危機を感じた町衆を始めとする庶民は、還幸祭にともなう後祭として「花笠巡行」を産みだしたのである。
それが現在に継承されている。
それは、「祇園祭花傘連合会」の結成となり、主に女性と子供達の手で、後祭の巡行の火を消さずに奉仕することとなったのである。
その約千人の巡行列は、山鉾巡行とは様相を異にし、非常に芸能的な色彩が濃く、花傘・祇園太鼓・獅子舞・祇園囃子・馬長・鷺祭などから構成された。
ただただ頭が下がる思いである。
なぜなら、祭礼行事のなかで人々が神と一体となって、神賑(かみぶるまい)を通じ、人知を超越した神通力をもって厄難退散を希(,ねが)い、神を歓待する心と信仰の意味をなしているからである。
その純で下向きな御霊会への町衆の思いは、必ずや牛頭天王(ごずてんのう)に届いているに違いない。
午前10時、京の夏を謳う幟旗が棚引く祇園石段下を、花傘巡行の行列が出発する。
先祓に氏子町の子供神輿が先導し、花傘巡行旗を先頭にまず神饌行列・花車・祇園太鼓と続く。
行列は囃子があると真に華やかに弾むものである。祇園太鼓の響きが体の芯に届いてくるからこそ、それに続く行列も見物できるものである。
八坂神社青年会旗が先導する花傘・金獅子・銀獅子・幌武者・高士・児武者が続く。どれもこれも色鮮やかで、形からして風流である。中でも幌武者・高士・児武者など珍しく特に面白い。
市中に住まう悪霊も、「何か?」と姿を表し、鉾(花傘)に捕りつかれ、牛頭天王に成敗されることは間違いないと思う。
徒歩(かち)の幌武者の背につけている大きな球形の布が幌(母衣)である。
球形の中は、竹、鯨ひげ、籐、柳の枝等で籠を作り、染め抜いた大きな柄布でその籠を包み、背中に着けたものであると聞いた。
後ろから飛んでくる矢や弾丸を防ぐ効果もあり、戦場では特別の役職など、目立つ必要がある武者の標識であったとか、幌武者は猛者の象徴として人気が高かったという。
平安時代末期から関ヶ原合戦頃までは多くの武者に使用され、他府県の祭事では、曳山や神輿を先導したり、出迎えたりしているようだ。
幌武者に続く騎乗の高士も何かと思う。背中に横棒で吊り下げた大きな袖は、嘘かと思うほどに奇抜である。
続く児武者は稚児のようであるが、雉(きじ)の長い尾羽根の飾りつけた粋な菅笠に、萌黄の狩衣姿の騎乗で凛々しい。ところが、背には色とりどりの花篭を背負っている。
どうみても風流を競っているとしか言いようがない。
この調子で説明していくと紙幅が足りない。
次の機会に譲るとして、花笠巡行は、庶民が祇園社の祭神とともに、心底から疫病厄病悪霊をこの地から祓わんとする願いの形であることは間違いない。
その庶民の心底からの願いを、車社会を優先させる交通行政の端に置いて良いものだろうか。交通事故の現場検証にとる時間での渋滞と比べれば、優先し、あるいは価値を置くものを見直す時がきていると信じて疑わない。
現代社会の盲点は、自然や宇宙を人間が支配できるという驕りから生まれている。そのことに誰もが既に気づいている筈だ。
このあと、馬長・六斎に続き、織商花傘・花傘娘・織商鉾・お茶屋組合花傘・小町踊(祇園東)・歌舞伎踊(先斗町)・花傘・さぎ踊・万灯踊花傘と、衣装も華やかに綺麗どころと娘さん達が沿道を賑わし、祇園囃子が最後尾で音曲を振舞うのを見送ることになる。
行列は、信号待ちで分断されていた。
なぜかマラソン選手は信号では止まらない。信号が赤から青に替えられているのである
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