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新島八重を主人公とする2013年NHK大河ドラマ「八重の桜」の制作発表がされたのは、2011年6月のことである。
そして同9月、同志社大学のオフィシャルサイトに「新島八重と同志社」と題する特設サイトが立ち上げられた。
小生には新島八重と言われても想像さえつかない。
唯一、京都に同志社を創立したことで夙に知られる新島襄を支えた妻であろうということしか知らない。
NHKの発表資料によると、新島八重は会津若松出身の女傑で、「幕末のジャンヌ・ダルク」「日本のナイチンゲール」との異名がある。東北・福島に根づく不屈のプライドを持ち、苦境にもめげず清々しく生きた女性であることから、東日本大震災の被害からの復興を目指す被災地への力強いメッセージを込めた作品となる模様である。
そうなれば、この秋の関心のひとつに、京都の新島八重ゆかりの探訪をあげずにはいられない。
会津でどんな風に育ったのか、明治維新によって敗者となり賊軍となった地の出身者が、いかなる辛酸を舐め暮らしたのか。そして、苦境の中、新島襄とめぐり合い結婚し、薩摩藩邸跡に同志社を創立し、自由闊達な確固たる学問の府を打ち立てたのか。
知りたいことは山ほどにある。
まず、広報される資料などから、基本的なことを調べることにした。
弘化2年11月3日(1845年12月1日)に、兵学を担っていた会津藩士山本権八・佐久夫妻の三女として八重は誕生し、後に砲術家となる兄山本覚馬(1828〜92年)がいたのである。
女らしくという母親佐久の願いをよそに、男まさりに育った少女は広い見識をもつ兄覚馬を師と仰ぎ、裁縫よりも鉄砲に興味を示したようである。
女だてらの十代にして、近所の子どもを集め砲術を教え、その子どもらの中には白虎隊隊員となった伊東悌次郎がいるほどであったらしい。
その後の1862年に、兄覚馬は京都守護職に就任した藩主松平容保(かたもり)に従って上洛し、西洋式軍隊の調練と洋学所を主宰することとなり、明治維新後は、自らが記した「山本覚馬建白(通称、管見)」が新政府に認められ、明治3年(1870年)、京都府顧問として迎えられ、府政に貢献している。
例えば、日本最初の内国勧業博覧会開催を進言し、本邦最初の英文案内記を著している。
その京都での活躍が、八重と新島襄を結びつけることになるとは考えだにできなかったことであろう。
慶応元年(1865年)、八重は、但馬出石藩出身で藩校日新館の教授を務めていた川崎尚之助と結婚する。
やがて、鳥羽伏見の戦いが始まり、江戸城開城、会津戦争へと戊辰戦争の局面は進んだ。
慶応4年8月(1868年8月)、23才の八重は断髪の上男装し、会津・鶴ヶ城に500人の女たちの先頭となり、スペンサー銃を手に立て籠もり戦った。
然しながら、籠城戦で共に籠もる夫は行方不明となり、後に離縁を余儀なくされることとなる。
板垣退助率いる新政府軍の引き続く進軍に、一ヶ月の籠城も空しく明治元年(1868年9月)、この時が戊辰戦争の落日となったのである。
そもそも会津藩は嘆願書で天皇への恭順を表明していたが、新政府の権威は認めず謝罪もせず武装も解かなかった為、敗戦後新政府からは敵対として扱われ、旧藩士や家族は飢えと寒さで病死者が続出し、日本各地や海外に散る者も多くいたという。
会津藩の敗戦から3年後の明治4年(1871年)、26歳の八重は母の佐久、姪の峰を伴い、京都府顧問となっていた兄山本覚馬を頼り京都の地を踏んだ。
幸いにも、兄の推薦により京都女紅場(にょこうば/後の府立第一高女・現在の京都府立鴨沂高等学校)の権舎長・教道試補の職を得た。
そして、兄覚馬と行き来のあった新島襄と知り合うには何ほどの時間も要さなかったのである。
丁度その頃に、新島襄がアメリカの養母であるA.H.ハーディー夫人へ宛てた手紙に、「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。」と記していたそうだ。
間違いなく八重に好感していたことは伝わってくるのだが、襄のいうハンサムとは、どういう意味を持っていたのであろうか。
女は男に従うことが当然とされた時代に、豪放かつ勝手気ままに見える八重の武士道を通した生き方は、米国で教育を受け10年暮らした襄のデモラシーの思想に共鳴するものがあったというのだろうか。
明治8年10月15日婚約した新島襄と八重は、翌月「同志社英学校」を開校することになる。
それは、婚約直後突如として女紅場を解雇されたからである。新島のキリスト教主義の学校建設を阻止しようと町の僧侶・神官たちが京都府知事・文部省に圧力をかけていた為の出来事だったのである。
この時既に、覚馬は、維新後桑畑となっていた薩摩藩邸跡地6000坪を、献策「管見」の褒美の一つとして、西郷隆盛から破格の安値で譲り受けていた。
その薩摩藩邸跡地は義弟となった新島に譲られ、同志社の校舎はその地に建てられ開校の運びとなったわけである。
かくして、翌年1月、宣教師J.D.デイヴィスから洗礼を受けた八重は、京都で最初の日本人としてクリスチャンの結婚式を挙げた。新島襄32歳、八重30歳の時である。
日本史における明治維新は、政治、経済、産業、生活習慣などあらゆる面において、史上空前の世直しが行われた出来事である。
その新時代に学校教育制度が旧態依然では新時代に相応しい人間を作ることはできず、真の維新を成功させられないことは明白であった。
また、新島襄のキリスト教教育と自由教育への切望は、欧米文明を支える教育を日本に齎すことが、日本の近代化に繋がるとの確信からであった。
それを具体化しようとする襄を支えたものは、彼の信念と会津藩出身の妻八重、義兄山本覚馬の存在なくしては有り得なかったのであろう。
「同志社」つまり「志を同じくする個人の約束による結社」という名前自体に、その理念が表れているのではないか。
京の地に展開した新島襄の新教育と八重の生涯、更には人間八重が、大河ドラマ「八重の桜」でどのように演出されるのかが今から楽しみである。
同志社大学構内に残される建造物や遺品、寺町丸太町上るに残る新島襄旧宅跡に、若王寺の新島家墓地を訪れないわけにはいかない。
そして同9月、同志社大学のオフィシャルサイトに「新島八重と同志社」と題する特設サイトが立ち上げられた。
小生には新島八重と言われても想像さえつかない。
唯一、京都に同志社を創立したことで夙に知られる新島襄を支えた妻であろうということしか知らない。
NHKの発表資料によると、新島八重は会津若松出身の女傑で、「幕末のジャンヌ・ダルク」「日本のナイチンゲール」との異名がある。東北・福島に根づく不屈のプライドを持ち、苦境にもめげず清々しく生きた女性であることから、東日本大震災の被害からの復興を目指す被災地への力強いメッセージを込めた作品となる模様である。
そうなれば、この秋の関心のひとつに、京都の新島八重ゆかりの探訪をあげずにはいられない。
会津でどんな風に育ったのか、明治維新によって敗者となり賊軍となった地の出身者が、いかなる辛酸を舐め暮らしたのか。そして、苦境の中、新島襄とめぐり合い結婚し、薩摩藩邸跡に同志社を創立し、自由闊達な確固たる学問の府を打ち立てたのか。
知りたいことは山ほどにある。
まず、広報される資料などから、基本的なことを調べることにした。
弘化2年11月3日(1845年12月1日)に、兵学を担っていた会津藩士山本権八・佐久夫妻の三女として八重は誕生し、後に砲術家となる兄山本覚馬(1828〜92年)がいたのである。
女らしくという母親佐久の願いをよそに、男まさりに育った少女は広い見識をもつ兄覚馬を師と仰ぎ、裁縫よりも鉄砲に興味を示したようである。
女だてらの十代にして、近所の子どもを集め砲術を教え、その子どもらの中には白虎隊隊員となった伊東悌次郎がいるほどであったらしい。
その後の1862年に、兄覚馬は京都守護職に就任した藩主松平容保(かたもり)に従って上洛し、西洋式軍隊の調練と洋学所を主宰することとなり、明治維新後は、自らが記した「山本覚馬建白(通称、管見)」が新政府に認められ、明治3年(1870年)、京都府顧問として迎えられ、府政に貢献している。
例えば、日本最初の内国勧業博覧会開催を進言し、本邦最初の英文案内記を著している。
その京都での活躍が、八重と新島襄を結びつけることになるとは考えだにできなかったことであろう。
慶応元年(1865年)、八重は、但馬出石藩出身で藩校日新館の教授を務めていた川崎尚之助と結婚する。
やがて、鳥羽伏見の戦いが始まり、江戸城開城、会津戦争へと戊辰戦争の局面は進んだ。
慶応4年8月(1868年8月)、23才の八重は断髪の上男装し、会津・鶴ヶ城に500人の女たちの先頭となり、スペンサー銃を手に立て籠もり戦った。
然しながら、籠城戦で共に籠もる夫は行方不明となり、後に離縁を余儀なくされることとなる。
板垣退助率いる新政府軍の引き続く進軍に、一ヶ月の籠城も空しく明治元年(1868年9月)、この時が戊辰戦争の落日となったのである。
そもそも会津藩は嘆願書で天皇への恭順を表明していたが、新政府の権威は認めず謝罪もせず武装も解かなかった為、敗戦後新政府からは敵対として扱われ、旧藩士や家族は飢えと寒さで病死者が続出し、日本各地や海外に散る者も多くいたという。
会津藩の敗戦から3年後の明治4年(1871年)、26歳の八重は母の佐久、姪の峰を伴い、京都府顧問となっていた兄山本覚馬を頼り京都の地を踏んだ。
幸いにも、兄の推薦により京都女紅場(にょこうば/後の府立第一高女・現在の京都府立鴨沂高等学校)の権舎長・教道試補の職を得た。
そして、兄覚馬と行き来のあった新島襄と知り合うには何ほどの時間も要さなかったのである。
丁度その頃に、新島襄がアメリカの養母であるA.H.ハーディー夫人へ宛てた手紙に、「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。」と記していたそうだ。
間違いなく八重に好感していたことは伝わってくるのだが、襄のいうハンサムとは、どういう意味を持っていたのであろうか。
女は男に従うことが当然とされた時代に、豪放かつ勝手気ままに見える八重の武士道を通した生き方は、米国で教育を受け10年暮らした襄のデモラシーの思想に共鳴するものがあったというのだろうか。
明治8年10月15日婚約した新島襄と八重は、翌月「同志社英学校」を開校することになる。
それは、婚約直後突如として女紅場を解雇されたからである。新島のキリスト教主義の学校建設を阻止しようと町の僧侶・神官たちが京都府知事・文部省に圧力をかけていた為の出来事だったのである。
この時既に、覚馬は、維新後桑畑となっていた薩摩藩邸跡地6000坪を、献策「管見」の褒美の一つとして、西郷隆盛から破格の安値で譲り受けていた。
その薩摩藩邸跡地は義弟となった新島に譲られ、同志社の校舎はその地に建てられ開校の運びとなったわけである。
かくして、翌年1月、宣教師J.D.デイヴィスから洗礼を受けた八重は、京都で最初の日本人としてクリスチャンの結婚式を挙げた。新島襄32歳、八重30歳の時である。
日本史における明治維新は、政治、経済、産業、生活習慣などあらゆる面において、史上空前の世直しが行われた出来事である。
その新時代に学校教育制度が旧態依然では新時代に相応しい人間を作ることはできず、真の維新を成功させられないことは明白であった。
また、新島襄のキリスト教教育と自由教育への切望は、欧米文明を支える教育を日本に齎すことが、日本の近代化に繋がるとの確信からであった。
それを具体化しようとする襄を支えたものは、彼の信念と会津藩出身の妻八重、義兄山本覚馬の存在なくしては有り得なかったのであろう。
「同志社」つまり「志を同じくする個人の約束による結社」という名前自体に、その理念が表れているのではないか。
京の地に展開した新島襄の新教育と八重の生涯、更には人間八重が、大河ドラマ「八重の桜」でどのように演出されるのかが今から楽しみである。
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