失明武士が近代京都生みの親となる

新島八重の兄山本覚馬 by 五所光一郎

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八重の実兄であり、新島襄の義兄となる山本覚馬はどんな人物で、いかなる生涯を送ったのであろうか。
八重の生涯も、同志社大学の存在も、維新後の京都府政の活性化も、新政府の西郷隆盛さえも、覚馬抜きには到底語れないようである。

覚馬は、会津藩の長沼流砲術師範であった山本権八・佐久夫妻の長男として、文政11年1月11日(1828年2月25日)、会津鶴ヶ城の西出丸に近い米代四ノ丁に生まれる。

八重は六人兄妹の三女で、長男覚馬の17才下の妹である。
男まさりと言われた活発で物おじしない八重の性格は持って生まれたものばかりではなく、兄覚馬を師と仰ぎ、蘭学や砲術の指南まで授けた覚馬によるところも大であろう。
また、六人兄妹といっても、健康に育ったのは長男の覚馬と五人目の八重と末っ子の三郎だったのだから、その実は男兄弟に挟まれた長女だったのだ。

藩校日新館で学んだ覚馬は、武道に興味を抱き武芸にすぐれた才能を発揮していた。学問に取り組んだのは武道を極めるために兵法書を読む必要に駆られたからだと言う。
もっぱら、聡明な父母の下に生まれた覚馬は、四歳で唐詩選の五言絶句をそらんじたという位に、ずば抜けた資質はあったようである。
そして、青年期までに文武兵学を修得し、剣、槍、馬術を極める豪毅な会津武士として日新館において頭角を現し、重用されていくのである。

八重5才覚馬22才のとき、覚馬に変化がおとずれる。
会津を出て江戸に遊学することを予告されるがごとく、佐久間象山の塾に入門することを、会津に来た象山自らに許されているのである。
翌年、弓馬槍刀(きゅうばそうけん)の師伝を得、藩主から賞を得た覚馬は、嘉永6年(1853年)8月、軍事奉行の林権助の随行員に選ばれ、江戸藩邸勤番を命じられた。
覚馬25才の江戸への遊学の始まりで、この時、武田斐三郎、勝海舟らの塾生のいる佐久間象山の象山塾に入門するのである。

この遊学の転機は、覚馬に蘭学と西洋式砲術を否応なく学ばせることとなる。
嘉永6年6月にはペリーの浦賀来航があり、黒船を目の当たりに見て、西洋の軍制、洋式海軍の圧倒的優勢に、旧来の日本の軍制の変革が風雲急を告げていることを覚馬は肌身で感じた筈である。

その3年後にはハリスが来日し通商開国(日米修好通商条約)となり、幕末の混乱内紛期を迎え、江戸城開城まであと15年の歳月であった。

覚馬の江戸遊学の3年間は、大砲や鉄砲を鋳造していた象山、勝らより、その製造方法を学び、射撃訓練にも参加していたようである。
江戸湾警備を任務としていた会津藩士ゆえ、否応なく黒船を目にしていたであろうし、その脅威は、西洋式の軍制と砲術を学ぶことを急きたてたであろう。

自ずから蘭学、洋学の書を貪り、西洋の文明にも触れ、世界的な視野を身に着つけいったのは想像するに難くない。

安政3年(1856年)遊学から会津に戻ると、28才で藩校日新館の教授となり、翌年蘭学所を新設し、世界情勢や洋式砲術を教え兵制改革を力説するのである。

しかし、長沼式兵法を重んじた時世に疎い会津の重臣らは、覚馬の急進的な改革や旧態的な軍制批判を受け入れず、1年の禁足処分を下したのである。

ところが、世界の中の国家を考える覚馬はめげることなく訴え続け、幕府の西洋式兵制改革の方針がだされるや、弱冠30歳の若さで軍事取調役兼大砲頭取に抜擢されることになった。
そうして、会津藩の軍制の近代化も一気に進むこととなる。

13才の八重にとって、兄覚馬がいかに偉大な存在に映ったであろうか。
母佐久の話に、「今はわずかな禄を戴く小家ではあるけれど、自己を磨いて修身にいそしめば、やがて必ず社会に認められるときがくる」という教えがあったことを、後に兄妹は回顧している。

更に覚馬に転機が訪れる。

文久2年(1862年)藩主松平容保(かたもり)が京都守護職に就任した翌々年の元治元年2月、藩主に従い覚馬は京に上り、黒谷本陣にて自らが師範となって、気鋭の藩士に西洋式軍隊の調練を行い砲兵隊を組織し、御所の守衛体制を整えた。
また、諸藩士に洋学の講義を行う会津藩京都洋学所を、市中の寺院で主宰するようになったのである。

しかし、勤皇派佐幕派とに揺れる京都での覚馬の船出は決して順風とはいえなかった。
蛤御門の変(禁門の変)において、砲兵隊長として薩摩の銃砲隊とともに長州藩を破り勲功をあげるが、破片による損傷と持病の白内障の悪化等が原因で、殆ど失明同然の状態になった。
長崎へ治療に出向くが、その悪化は施しようがなく、失明した武士として歩むべきを考えたに違いない。

会津の公用人として、諸藩と外交し調整画策を図り、オランダ帰りの西塾の後援者となり西洋事情や西洋哲学の見聞を広め、万国公法を暗記していたと言われている。
社交家の覚馬の一面が遺憾なく発揮されたその際たるものは、西洋諸国の商人たちとも通じ親交を深め、具体的な情報を収集し身に着けていったことであろう。新式スナイドル銃1万5000挺をドイツ商人レーマンから輸入したのもこの頃であった。

「内紛開戦を避け、国挙げて外敵の脅威に備える時」という象山塾の思想と、持論を同じくする覚馬にとって、鳥羽・伏見の戦いは苦渋の出来事であったに違いない。

慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いで敗北を喫した会津藩士として、新政府軍により薩摩藩邸に幽閉される。

ここで、覚馬は生涯における最大の転機を迎えるのである。

薩摩藩要人は覚馬の優秀さを知っており決して粗末には扱わなかった。
この幽閉中に、覚馬は口述筆記させた新政府への建白書「管見」を上程し、これを読んだ西郷隆盛らは益々敬服、一層待遇を良くしたという。
盲目になっても明日の日本を考え抜いた献策は、政治、経済、教育等22項目にわたる明治政府の骨格と文明政策ビジョンで、富国強兵の草案を示すものであった。

そして、明治元年仙台藩邸の病院に移され、岩倉具視の訪問を受け、翌年釈放されたのである。

明治3年(1870年)、自由の身なった覚馬は、京都府大参事(知事)・河田佐久馬の推挙により京都府庁に出仕、当時権大参事(副知事)として府政の実権を握っていた槇村正直(のち京都府令・知事)の顧問として府政を指導する活躍の場を得たのである。
一方、天皇を失った新京都の復権には、時代の潮流を具体化できる人物はおらず、覚馬を得たことで活路をみいだすことが現実となったのである。

京都府の洋式工業を中心とする勧業は、覚馬が立案した計画を槇村が決定し、覚馬会津藩京都洋学所の生徒だった勧業課長明石博高が実行に移す構図で、近代化の道を進んだ。

翌明治4年、再活躍の場を得た覚馬は、戊辰戦争敗北の会津をあとに第二の故郷となる京都へ、八重と母らを迎えるのである。

明治5年(1872年)、日本最初の博覧会となる「第1回京都博覧会」が西本願寺・建仁寺・知恩院を会場に開催され、京都は たちまち日本一の近代工業都市の足がかりを得てゆく。以後毎年行われ、平安遷都千百年紀念祭にあわせて、明治28(1895)年の第四回内国勧業博覧会を岡崎の地に開催することに成功するのである。
まさに、覚馬をして近代京都の生みの父と呼ぶに相応しい。

失明というハンディを乗り越え、囚われの身から大舞台へと活躍の場を移した山本覚馬
西欧の技術や文化を積極的に導入するなど、鋭い先見性と不易流行、バランス感覚に優れたこの逸材を得て、京都は近代化へと導かれていったのである。

そういう兄の影響を受けて、導かれ、近代女性の先駆者となったのが八重だったのだろう。 (続く)


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