京都の方なら「将軍塚」をご存知だろう。
さて、この将軍とは一体誰なのか。
日本で将軍といえば、天皇に任命された軍事の最高指揮官である「征夷大将軍」などを指すが、平安京以降でいうと・・・大伴弟麻呂・坂上田村麻呂に始まり、武家政権となった鎌倉時代には源頼朝、室町幕府が成立すると足利尊氏など足利一族が思い浮かぶ。
ところが、この将軍塚は人に由来する塚ではなかったのである。
そして、青蓮院が創建された平安末期を遡る平安遷都の直前であった。
784年、奈良から長岡京遷都をされた9年後の1月、長岡宮使藤原種継の暗殺や飢饉、疫病の大流行、皇后や皇太子の発病や皇太弟早良親王の怨霊などと、相次ぐ遷都以来の災難や不幸を悩んだ末、桓武天皇は再遷都を宣言された。
その頃、和気清麻呂は建議の前に、華頂山の山上にお誘いし山背国葛野・愛宕両郡にまたがる盆地を見下ろしながら、都の場所にふさわしい旨進言したと伝える。
四神相応の地と看做されたこの盆地は、玄武が棲む北方に丘陵の船岡山が、朱雀が棲む南方に湖沼の巨椋池が、青龍が棲む東方に清流の鴨川が、白虎が棲む西方に大道となる山陰道があり、平安を齎す都に最適無二な場所と確信されたのであろう。
日本紀略には「葛野の地は山や川が麗しく四方の国の人が集まるのに交通や水運の便が良いところだ」という桓武天皇の勅語が残っている。
この華頂山からの見晴しなくして、千年の都は生まれなかったと言っても過言ではないのである。
平安遷都を宣言されるや、天皇は新たな王城鎮護のために、まず、高さ2.5メートル程の将軍の像を土で作り、鎧甲を着せ、鉄の弓矢を持たせ、太刀を帯させ、塚をこさえ埋めるよう命じられたという。
後世の文献「保元物語」「平家物語」に、その下りが記されているようだ。
その塚は、794年10月22日遷都され、翌月8日山背国から山城国と名を改められた平安京の京都盆地を見下ろすように造営され、直径約20メートル、高さ約2メートルの円墳として今も残されている。
その地が古来より「将軍塚」と呼び慣わされているのである。
一説に、遷都の場所をこの地で進言した「和気清麻呂」の塚ではないかとするものもあるが、平安京の高官造営大夫として尽力した記録はあるが、将軍塚に埋葬されたかどうかは定かではない。
また、大将軍とは、陰陽道における方位の吉凶を司る八将神(はっしょうじん)の一神で、魔王天王とも大鬼神とも呼ばれているが、桓武天皇は、遷都直後の平安京の四方に、大将軍を祭神とする四つの大将軍神社(当初は大将軍堂と呼ばれた)を創建させている。
将軍塚で決心された新たな王城の地を、いかに平安悠久の都としてお考えになられたかの執念を垣間見ることができるのではないか。
その桓武天皇の見られた景色を見るには春の桜の頃か、秋の紅葉の頃が最適である。三条通を山科方面へ、蹴上を過ぎると九条山から東山ドライブウェーに入る。
五条通へと抜けられる道路であるが、途中右に上る三叉路がある。
うっかりすると見落としそうだが、将軍塚と大日堂への道案内が上がっている。
頂上に行き着くと、市営の無料駐車場が広がり展望台がある。
その展望台からの京都の眺めも素晴らしく、有名な夜景スポットと言われるが、本来の将軍塚の展望とは言い難い上、将軍塚そのものがない。
よく勘違いされ、愕然として帰られる方も多い。
本物の将軍塚と270度のパノラマ市街展望、真紅に染まる楓の大庭園、春なら枝垂桜などがあるのは、自動販売機の並ぶ北の方向百メートル先に見える山門の中である。
そこは、平安時代に作られた石造の胎蔵界大日如来を祀る、天台宗青蓮院門跡の飛地境内にある将軍塚大日堂である。その将軍塚庭園に入ると、全てが手中に収められる事になるのだ。
気が逸り早足に山門に近づくと、歩の度に門の間に見える深紅の塊が迫ってくる。風情ある門に吊るされた提灯の文字が読めるようになるのと、塊の線描が見えてくるのが同じ運びとなる。
なんと赤いのかが更に分る。正面に覗える赤だけではなくなってくる。背後に更に赤の大群が控えているではないか。
進行先に誘うかのように、橙や黄橙、黄の葉色が見え隠れする。
大日堂前のロータリーだけで、もう充分赤の広場なのに。
お堂の左右にも赤は広がっている。更に、お堂の左手に見える庭園の赤が、「こっちは、そんなもんじゃない!」と言わんばかりに、光り輝く赤を見せている。
ここから先は、拝観の関所である。迷うことなどない。
石造大日如来様に手短に手を合わせ、先を急ごうと、更に逸る。
庭へのくぐり戸の先に大木の赤がひしめき合っている。
まさに、ここは赤の別天地である。
燃えるような赤に包まれた境内は3000坪という。人は疎(まば)らだ。
真紅の楓に寄り添い、記念撮影をしている女性の顔が仄かに赤く染まっている。
展望台は北展望台と西展望台の二箇所ある。
北展望台に向かった。道中の赤い重なりの様子を細やかに記したいが、あまりの発色の美しさに絶句するばかりで言葉にならない。
そして、赤との対比に眩しい一際長い松葉を伸ばす大王松が現れると、その先に、まるで鳥瞰図が敷かれたような光景が目の前に広がる。
これなら京都盆地の展望が欲しいままである。しばし、桓武天皇の思いに耽(ふけ)ってみるがよい。
真ん中あたりにある京都御苑を目印に、その奥に船岡山、大文字と目で追う。
御所の森を見下ろすと、緑の中に黄、橙などと秋色の斑模様を見せ、森全体の紅葉が楽しめる。
東大路通か、黄色の一直線が引かれているのは銀杏並木だ。口々に見覚えのある場所を発し解説している声も聞ける。まるで俄かガイドさんである。
右側は、遥かに高い比叡山にかけての東山連峰の峯が壁を作り、小比叡の下に大文字山の「大」の字が斜に見えている。銀閣寺、浄土寺、法然院と白川通の並木が容易に分る。
右下目前の小高いところに、金戒光明寺の楼門が、文殊塔が、伽藍の後方に色づいている丘は神楽岡から吉田山である。平安神宮の朱の大鳥居が見えてきた。
頭をやや上げると、糺の森から鴨川の流域も見つけ出せた。などなど、探しだせる場所はまだまだいくらでもあるだろう。全部探して写真に撮っていては、いくら時間があっても足りなくなる気がした。
桓武天皇に始まり明治の元勲に到るまで、多くの偉人達がこの地から京都の町を見下し、豊かな日本の国造りを固く心に誓っていたかと思うと、なお更に、感慨一入である。
将軍塚の回遊式庭園を歩くと、真っ赤に燃える楓の木々だけではない。乃木大将、東郷元帥、菊池大麓、大隅重信等のお手植の松が植えられた、石柱や石碑が後継の松と共に残されている。
西展望台に向かうと、その階段の右傍に将軍塚があった。
赤の楓の林の中に、ここだけは緑の小高い丘となっていた。この円墳の中に、西向きに埋められた甲冑を着る将軍土像が眠っているのだ。
源平盛衰記や太平記に残る話で、「世の中に大きな変動がある時には、この将軍塚が音を立て、揺れ動き出し・・・」という伝説は、古来からの都人の関心を集めているところである。
将軍塚山頂に立てられた高さ十数メートルの展望台が西展望台である。
北山連峰から大阪までが見渡せるパノラマ眺望で知られる。
ここで境内の方に振り返ると、真っ赤な海原と化した楓の林を見下ろすことができた。
あまりの感動に、ライトアップされている夜間にもと、その日のうちに再度訪れることにした。
まるで、火の海だ。
漆黒の闇に、赤々と、めらめらと、楓が揺らいでいる。
本能寺の焼き討ちの夜を見ているかのようであった。
さて、この将軍とは一体誰なのか。
日本で将軍といえば、天皇に任命された軍事の最高指揮官である「征夷大将軍」などを指すが、平安京以降でいうと・・・大伴弟麻呂・坂上田村麻呂に始まり、武家政権となった鎌倉時代には源頼朝、室町幕府が成立すると足利尊氏など足利一族が思い浮かぶ。
ところが、この将軍塚は人に由来する塚ではなかったのである。
そして、青蓮院が創建された平安末期を遡る平安遷都の直前であった。
784年、奈良から長岡京遷都をされた9年後の1月、長岡宮使藤原種継の暗殺や飢饉、疫病の大流行、皇后や皇太子の発病や皇太弟早良親王の怨霊などと、相次ぐ遷都以来の災難や不幸を悩んだ末、桓武天皇は再遷都を宣言された。
その頃、和気清麻呂は建議の前に、華頂山の山上にお誘いし山背国葛野・愛宕両郡にまたがる盆地を見下ろしながら、都の場所にふさわしい旨進言したと伝える。
四神相応の地と看做されたこの盆地は、玄武が棲む北方に丘陵の船岡山が、朱雀が棲む南方に湖沼の巨椋池が、青龍が棲む東方に清流の鴨川が、白虎が棲む西方に大道となる山陰道があり、平安を齎す都に最適無二な場所と確信されたのであろう。
日本紀略には「葛野の地は山や川が麗しく四方の国の人が集まるのに交通や水運の便が良いところだ」という桓武天皇の勅語が残っている。
この華頂山からの見晴しなくして、千年の都は生まれなかったと言っても過言ではないのである。
平安遷都を宣言されるや、天皇は新たな王城鎮護のために、まず、高さ2.5メートル程の将軍の像を土で作り、鎧甲を着せ、鉄の弓矢を持たせ、太刀を帯させ、塚をこさえ埋めるよう命じられたという。
後世の文献「保元物語」「平家物語」に、その下りが記されているようだ。
その塚は、794年10月22日遷都され、翌月8日山背国から山城国と名を改められた平安京の京都盆地を見下ろすように造営され、直径約20メートル、高さ約2メートルの円墳として今も残されている。
その地が古来より「将軍塚」と呼び慣わされているのである。
一説に、遷都の場所をこの地で進言した「和気清麻呂」の塚ではないかとするものもあるが、平安京の高官造営大夫として尽力した記録はあるが、将軍塚に埋葬されたかどうかは定かではない。
また、大将軍とは、陰陽道における方位の吉凶を司る八将神(はっしょうじん)の一神で、魔王天王とも大鬼神とも呼ばれているが、桓武天皇は、遷都直後の平安京の四方に、大将軍を祭神とする四つの大将軍神社(当初は大将軍堂と呼ばれた)を創建させている。
将軍塚で決心された新たな王城の地を、いかに平安悠久の都としてお考えになられたかの執念を垣間見ることができるのではないか。
その桓武天皇の見られた景色を見るには春の桜の頃か、秋の紅葉の頃が最適である。三条通を山科方面へ、蹴上を過ぎると九条山から東山ドライブウェーに入る。
五条通へと抜けられる道路であるが、途中右に上る三叉路がある。
うっかりすると見落としそうだが、将軍塚と大日堂への道案内が上がっている。
頂上に行き着くと、市営の無料駐車場が広がり展望台がある。
その展望台からの京都の眺めも素晴らしく、有名な夜景スポットと言われるが、本来の将軍塚の展望とは言い難い上、将軍塚そのものがない。
よく勘違いされ、愕然として帰られる方も多い。
本物の将軍塚と270度のパノラマ市街展望、真紅に染まる楓の大庭園、春なら枝垂桜などがあるのは、自動販売機の並ぶ北の方向百メートル先に見える山門の中である。
そこは、平安時代に作られた石造の胎蔵界大日如来を祀る、天台宗青蓮院門跡の飛地境内にある将軍塚大日堂である。その将軍塚庭園に入ると、全てが手中に収められる事になるのだ。
気が逸り早足に山門に近づくと、歩の度に門の間に見える深紅の塊が迫ってくる。風情ある門に吊るされた提灯の文字が読めるようになるのと、塊の線描が見えてくるのが同じ運びとなる。
なんと赤いのかが更に分る。正面に覗える赤だけではなくなってくる。背後に更に赤の大群が控えているではないか。
進行先に誘うかのように、橙や黄橙、黄の葉色が見え隠れする。
大日堂前のロータリーだけで、もう充分赤の広場なのに。
お堂の左右にも赤は広がっている。更に、お堂の左手に見える庭園の赤が、「こっちは、そんなもんじゃない!」と言わんばかりに、光り輝く赤を見せている。
ここから先は、拝観の関所である。迷うことなどない。
石造大日如来様に手短に手を合わせ、先を急ごうと、更に逸る。
庭へのくぐり戸の先に大木の赤がひしめき合っている。
まさに、ここは赤の別天地である。
燃えるような赤に包まれた境内は3000坪という。人は疎(まば)らだ。
真紅の楓に寄り添い、記念撮影をしている女性の顔が仄かに赤く染まっている。
展望台は北展望台と西展望台の二箇所ある。
北展望台に向かった。道中の赤い重なりの様子を細やかに記したいが、あまりの発色の美しさに絶句するばかりで言葉にならない。
そして、赤との対比に眩しい一際長い松葉を伸ばす大王松が現れると、その先に、まるで鳥瞰図が敷かれたような光景が目の前に広がる。
これなら京都盆地の展望が欲しいままである。しばし、桓武天皇の思いに耽(ふけ)ってみるがよい。
真ん中あたりにある京都御苑を目印に、その奥に船岡山、大文字と目で追う。
御所の森を見下ろすと、緑の中に黄、橙などと秋色の斑模様を見せ、森全体の紅葉が楽しめる。
東大路通か、黄色の一直線が引かれているのは銀杏並木だ。口々に見覚えのある場所を発し解説している声も聞ける。まるで俄かガイドさんである。
右側は、遥かに高い比叡山にかけての東山連峰の峯が壁を作り、小比叡の下に大文字山の「大」の字が斜に見えている。銀閣寺、浄土寺、法然院と白川通の並木が容易に分る。
右下目前の小高いところに、金戒光明寺の楼門が、文殊塔が、伽藍の後方に色づいている丘は神楽岡から吉田山である。平安神宮の朱の大鳥居が見えてきた。
頭をやや上げると、糺の森から鴨川の流域も見つけ出せた。などなど、探しだせる場所はまだまだいくらでもあるだろう。全部探して写真に撮っていては、いくら時間があっても足りなくなる気がした。
桓武天皇に始まり明治の元勲に到るまで、多くの偉人達がこの地から京都の町を見下し、豊かな日本の国造りを固く心に誓っていたかと思うと、なお更に、感慨一入である。
将軍塚の回遊式庭園を歩くと、真っ赤に燃える楓の木々だけではない。乃木大将、東郷元帥、菊池大麓、大隅重信等のお手植の松が植えられた、石柱や石碑が後継の松と共に残されている。
西展望台に向かうと、その階段の右傍に将軍塚があった。
赤の楓の林の中に、ここだけは緑の小高い丘となっていた。この円墳の中に、西向きに埋められた甲冑を着る将軍土像が眠っているのだ。
源平盛衰記や太平記に残る話で、「世の中に大きな変動がある時には、この将軍塚が音を立て、揺れ動き出し・・・」という伝説は、古来からの都人の関心を集めているところである。
将軍塚山頂に立てられた高さ十数メートルの展望台が西展望台である。
北山連峰から大阪までが見渡せるパノラマ眺望で知られる。
ここで境内の方に振り返ると、真っ赤な海原と化した楓の林を見下ろすことができた。
あまりの感動に、ライトアップされている夜間にもと、その日のうちに再度訪れることにした。
まるで、火の海だ。
漆黒の闇に、赤々と、めらめらと、楓が揺らいでいる。
本能寺の焼き討ちの夜を見ているかのようであった。
5428-121025-11月
関連人物/組織
和気清麻呂
乃木大将
東郷元帥
菊池大麓
大隅重信
乃木大将
東郷元帥
菊池大麓
大隅重信
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