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大河ドラマでは、清盛の生母は白拍子舞子としてストーリーがはじまっている。
平家物語では祇園女御乙前(おとまえ)説もあるのだが、研究者の中では、白拍子舞子は、白河法皇が寵愛していた祇園女御の妹とする説が有力だそうである。
乙前が清盛を猶子としていたことからも、元服してからの取り立てられ様や出世の地位からも、白河法皇が忌み嫌った清盛に、乙前が相当なる肩の入れようだったことには違いなく、研究者の有力説に同調したくなる。
その清盛の生年1118年の翌年に、第75代崇徳天皇が鳥羽天皇の第一皇子として誕生した。白河院政による専制政治が行われている真っ只中であった。
1123年、父鳥羽天皇20歳、第一皇子顕仁(あきひと) 5歳の正月、顕仁親王は皇太子となり、同日に父鳥羽天皇は譲位、翌2月、崇徳天皇として即位することになる。
これから政務を執り行なうことができるというのに、孫の鳥羽天皇を上皇とすることで、白河法皇は、ひ孫に王権を遷し、自らの手で牛耳れるよう運んだのである。
白河法皇はそれが初めての手札ではなかった。
1086年、第ニ皇子の堀河天皇が立太子となった8歳の時に、自らが天皇を35歳で譲位し、立太子を即位させ院政をはじめた時に始まり、堀河天皇の亡くなった1107年、即座に孫の鳥羽天皇を4歳で即位させている。
父の後三条天皇の死亡した1073年、第一皇子の白河天皇として20歳で即位した時、皇太弟を定められていたことに、白河天皇は反発を抱いていたのである。
一度手にした王権を離さない意思は固く、皇太弟の実仁親王が死去した1085年、即座に皇太子を立てたのである。
そればかりか、実仁立太子を巡る教訓から、堀河・鳥羽・崇徳の異母兄弟に対しては親王宣下も臣籍降下も認めずに出家させて、皇位継承権を剥奪する用意周到さであった。
そもそも、藤原氏の影響が多大であった摂関政治に決別をするべく、院政を敷くことが考え出されたのだが、王権に政権を取り戻せば、我が子とて譲らず、白河法皇は絶対権力者として君臨し、統治し続けたのである。
大河ドラマ平清盛第一回の鳥羽殿のシーンを思い出す。
鳥羽天皇譲位を迫る白河法皇の元へ、鳥羽天皇の子顕仁(崇徳天皇)が、父親と思って駆け寄る場面である。鳥羽天皇の屈辱はいかばかりであったろうか。
鳥羽天皇の后璋子(たまこ/待賢門院)は、白河法皇の養女として育てられ、かつ法皇の愛妾であった。
その愛妾璋子を孫の鳥羽天皇の后とし、天皇の后と密通し、崇徳天皇を宿させたのである。
その時の白河法皇の台詞は、「わしの世じゃ」と、凄むものだった。
鳥羽上皇は、法皇の死後、院政の大君となるが、法皇の影に脅え続ける。
一方、第2回のドラマでは、数奇な定めを背負った平太が、「無頼の高平太」と呼ばれる傍若無人の思春期を描き、1129年元服した平太が父忠盛より清盛の名を授かる。
悪政を執る白河法皇は「殺生禁断令(せっしょうきんだんれい)」を出し、人々の暮らしは更に苦しくなる中、令を破った漁師鱸丸(すずきまる)の父滝次が捕らえられた。
「殺生禁断令」は、鳥や犬を飼う事も、狩や漁も禁じたもので、魚を獲る網は京に送らせ、御所の門前で焼いていたのである。
その滝次の釈放を願い、清盛は白河殿に乗り込むのである。
清盛は法皇の横暴を「もののけ」となじり、法皇に「お前にも『もののけ』の血が流れている」と返され、愕然と地に伏し、生母舞子の殺された白河殿の庭土を掴む場面と展開されていた。
そして、逞しい清盛を見せるシーンとなる。
3月の午の日に催された石清水八幡宮の臨時祭で、舞人に選ばれた清盛は華麗かつ殺気に満ちた舞を見せる最中、自らの青龍刀に持ち替え、憎しみの目で白河法皇に今にも斬りかからんと、青龍刃を向ける演出である。
この挑戦的な姿には、武家政権を志し、民を救う誓いが芽生えていたのであろうか。
自らの青龍刀を大地に刺し、「おもしろう・・・生きてやる」と笑い、突き刺さった青龍刃を抜き、腰に差し立ち去った。
それは次なる展開を暗示させていたのだろう。
第3回の予告では、清盛の舞を見た四ヶ月後の1129年7月7日、白河法皇は崩御する。
それは崇徳天皇の王権の下、鳥羽上皇の乱世の幕開けとなる院政の始まりで、清盛が平氏六波羅の屋敷に戻らず、西海での海賊制圧に郎党と生きる喜びを覚え、武士の棟梁の礎を築く始まりであったのだろう。
同じ白河法皇を父とする、異母兄弟の平清盛と崇徳天皇の運命の違いがまざまざと伝わってくる。
白河殿と鳥羽殿との院御所の軽重は変われども、平氏の六波羅の役割は変わらなかったのである。否、北面武士として重用され、その地位は必要不可欠に強化されていったと言える。
鳥羽殿跡を歩いた数日後に、六勝寺や白河殿のあった岡崎公園から熊野神社の西南辺りを歩いた。
1086年,白河天皇は譲位して院政を開始し,法勝寺の西側に1115年、白河泉殿(北殿)という院御所を造営し、さらに1118年、南殿と御堂などを建立している。白河の地は,鳥羽殿(鳥羽離宮)とともに院政の拠点になったところである。
鳥羽天皇と璋子を鳥羽離宮に置き、白河に乙前を置き、法皇は行き来していたのであろう。
白拍子舞子が清盛を宿したのは白河南殿で、二条大路の鴨川辺りから六波羅に近い所まで逃げのびたとするのが自然なのかもしれない。
岡崎公園では、京都市動物園の噴水池東に「法勝寺九重塔跡」の石標を見た。
また、京都市勧業館みやこめっせの北西と疏水沿い二条橋南に「延勝寺跡」の石標を、京都会館に「尊勝寺跡碑」、疏水沿い熊野橋西詰南に「白河南殿跡碑」、徳成橋東詰南に「得長寿院観音堂跡碑」を見た。
そして、白河北殿址の石標を丸太町通の京都大学熊野寮内に見つけた。
その他洛中にも、白河法皇の院の御所の機能を持った場所があるという。
清盛のルーツ探しも楽ではないが、白河法皇を知らないことには、清盛に近づけはしないと思う。
平家物語では祇園女御乙前(おとまえ)説もあるのだが、研究者の中では、白拍子舞子は、白河法皇が寵愛していた祇園女御の妹とする説が有力だそうである。
乙前が清盛を猶子としていたことからも、元服してからの取り立てられ様や出世の地位からも、白河法皇が忌み嫌った清盛に、乙前が相当なる肩の入れようだったことには違いなく、研究者の有力説に同調したくなる。
その清盛の生年1118年の翌年に、第75代崇徳天皇が鳥羽天皇の第一皇子として誕生した。白河院政による専制政治が行われている真っ只中であった。
1123年、父鳥羽天皇20歳、第一皇子顕仁(あきひと) 5歳の正月、顕仁親王は皇太子となり、同日に父鳥羽天皇は譲位、翌2月、崇徳天皇として即位することになる。
これから政務を執り行なうことができるというのに、孫の鳥羽天皇を上皇とすることで、白河法皇は、ひ孫に王権を遷し、自らの手で牛耳れるよう運んだのである。
白河法皇はそれが初めての手札ではなかった。
1086年、第ニ皇子の堀河天皇が立太子となった8歳の時に、自らが天皇を35歳で譲位し、立太子を即位させ院政をはじめた時に始まり、堀河天皇の亡くなった1107年、即座に孫の鳥羽天皇を4歳で即位させている。
父の後三条天皇の死亡した1073年、第一皇子の白河天皇として20歳で即位した時、皇太弟を定められていたことに、白河天皇は反発を抱いていたのである。
一度手にした王権を離さない意思は固く、皇太弟の実仁親王が死去した1085年、即座に皇太子を立てたのである。
そればかりか、実仁立太子を巡る教訓から、堀河・鳥羽・崇徳の異母兄弟に対しては親王宣下も臣籍降下も認めずに出家させて、皇位継承権を剥奪する用意周到さであった。
そもそも、藤原氏の影響が多大であった摂関政治に決別をするべく、院政を敷くことが考え出されたのだが、王権に政権を取り戻せば、我が子とて譲らず、白河法皇は絶対権力者として君臨し、統治し続けたのである。
大河ドラマ平清盛第一回の鳥羽殿のシーンを思い出す。
鳥羽天皇譲位を迫る白河法皇の元へ、鳥羽天皇の子顕仁(崇徳天皇)が、父親と思って駆け寄る場面である。鳥羽天皇の屈辱はいかばかりであったろうか。
鳥羽天皇の后璋子(たまこ/待賢門院)は、白河法皇の養女として育てられ、かつ法皇の愛妾であった。
その愛妾璋子を孫の鳥羽天皇の后とし、天皇の后と密通し、崇徳天皇を宿させたのである。
その時の白河法皇の台詞は、「わしの世じゃ」と、凄むものだった。
鳥羽上皇は、法皇の死後、院政の大君となるが、法皇の影に脅え続ける。
一方、第2回のドラマでは、数奇な定めを背負った平太が、「無頼の高平太」と呼ばれる傍若無人の思春期を描き、1129年元服した平太が父忠盛より清盛の名を授かる。
悪政を執る白河法皇は「殺生禁断令(せっしょうきんだんれい)」を出し、人々の暮らしは更に苦しくなる中、令を破った漁師鱸丸(すずきまる)の父滝次が捕らえられた。
「殺生禁断令」は、鳥や犬を飼う事も、狩や漁も禁じたもので、魚を獲る網は京に送らせ、御所の門前で焼いていたのである。
その滝次の釈放を願い、清盛は白河殿に乗り込むのである。
清盛は法皇の横暴を「もののけ」となじり、法皇に「お前にも『もののけ』の血が流れている」と返され、愕然と地に伏し、生母舞子の殺された白河殿の庭土を掴む場面と展開されていた。
そして、逞しい清盛を見せるシーンとなる。
3月の午の日に催された石清水八幡宮の臨時祭で、舞人に選ばれた清盛は華麗かつ殺気に満ちた舞を見せる最中、自らの青龍刀に持ち替え、憎しみの目で白河法皇に今にも斬りかからんと、青龍刃を向ける演出である。
この挑戦的な姿には、武家政権を志し、民を救う誓いが芽生えていたのであろうか。
自らの青龍刀を大地に刺し、「おもしろう・・・生きてやる」と笑い、突き刺さった青龍刃を抜き、腰に差し立ち去った。
それは次なる展開を暗示させていたのだろう。
第3回の予告では、清盛の舞を見た四ヶ月後の1129年7月7日、白河法皇は崩御する。
それは崇徳天皇の王権の下、鳥羽上皇の乱世の幕開けとなる院政の始まりで、清盛が平氏六波羅の屋敷に戻らず、西海での海賊制圧に郎党と生きる喜びを覚え、武士の棟梁の礎を築く始まりであったのだろう。
同じ白河法皇を父とする、異母兄弟の平清盛と崇徳天皇の運命の違いがまざまざと伝わってくる。
白河殿と鳥羽殿との院御所の軽重は変われども、平氏の六波羅の役割は変わらなかったのである。否、北面武士として重用され、その地位は必要不可欠に強化されていったと言える。
鳥羽殿跡を歩いた数日後に、六勝寺や白河殿のあった岡崎公園から熊野神社の西南辺りを歩いた。
1086年,白河天皇は譲位して院政を開始し,法勝寺の西側に1115年、白河泉殿(北殿)という院御所を造営し、さらに1118年、南殿と御堂などを建立している。白河の地は,鳥羽殿(鳥羽離宮)とともに院政の拠点になったところである。
鳥羽天皇と璋子を鳥羽離宮に置き、白河に乙前を置き、法皇は行き来していたのであろう。
白拍子舞子が清盛を宿したのは白河南殿で、二条大路の鴨川辺りから六波羅に近い所まで逃げのびたとするのが自然なのかもしれない。
岡崎公園では、京都市動物園の噴水池東に「法勝寺九重塔跡」の石標を見た。
また、京都市勧業館みやこめっせの北西と疏水沿い二条橋南に「延勝寺跡」の石標を、京都会館に「尊勝寺跡碑」、疏水沿い熊野橋西詰南に「白河南殿跡碑」、徳成橋東詰南に「得長寿院観音堂跡碑」を見た。
そして、白河北殿址の石標を丸太町通の京都大学熊野寮内に見つけた。
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