さて、六波羅殿跡が駆け足となったが、この日赴きたかったのは、別邸西八条殿跡の一角にあったと言われる、若一神社である。西大路通を通る度に気になっていたところだが、境内に足を踏み入れるのは初めてである。
西大路通は幅広で南北に一直線の通りであるが、なぜか、八条の交差点のところだけが歪(いびつ)に出っ張っている。
道路にせり出た石垣の高台が西大路通を曲げ、高台には大きな楠が天に向かい、縦横無尽に太い枝を張り巡らせ、年中青々とした葉を繁らせている。
「若一神社」と染め抜かれた幟がはためいていた。
その石垣に近寄ると、「平清盛公 御創建社 仁安元年(1166年)」という案内板に、なんと「平清盛公 御手植楠」の札が建てられていた。
その大楠には注連縄がかけられ、見るからに神木然としていた。
石段をあがると、正面にある大楠の前には楠社(くすやしろ)の祠が建ち、脇には所狭しと大きな石灯籠が配置されている。
大楠は、樹齢850年を数えようとする古木で、高さ約9.5m、枝張り約13.9m、幹周り約3.61mの大木である。
現在の境内地は手狭で瀟洒であるが、樹齢600年を越す楠をはじめとして、社殿を囲うような樹齢200年を超える多数の楠といい、この御神木の大楠といい、それらの威容を誇る姿を見れば、往時の境内地がいかほどであったか、西八条殿跡を中心とした平氏の洛中の館の領域が、どんなに広大であったかが、容易に想像できるというものだ。
この大楠に纏わる話を聞いた。
仁安2年(1167年)、清盛が太政大臣に叙任した記念に植樹して以来、都落ちなど幾多の災難を、7世紀以上も乗り越えてきた大楠に、人為的な危機が訪れたという。
昭和9年(1934年)、今はなき西大路通を走っていたチンチン電車の敷設路面工事の際、工事関係者に不幸な事が続き祟りやもしれないと、また大楠を移動させるには難工事に過ぎると、侃々諤々(けんけんがくがく)の議論の末、最終的には伐採も移動もされず、残されることが決まったらしい。
しかしながら、道路幅にあたる箇所まで根は地中を這い、その根は人の胴ほどもあったという。それらは完全に取り除くことはできず、敷設工事に支障をきたすところを切断し、掘り起こすに留めざるを得なかったようだ。
西八条殿跡となる梅小路公園には何一つ、清盛や西八条殿を偲ぶものは残されていないとなると、若一神社に伝わる大楠は、唯一の清盛の遺産ではないだろうか。
そして、高台の北端に注連縄のかかる妙な岩が鎮座している。
その岩の隣には、「若一神社御神蹟」の石碑が建っていた。
そこで、若一神社の由緒を社伝に頼ると、
「光仁天皇の御代、唐より威光上人来り、天王寺に住し、紀州熊野に詣でし折り、迷い苦しむ人々を救わんと、御分霊若一王子の御神体を笈(おい)に負い旅立ち当地に来り、森の中の古堂に一夜を明かし御神意に従い堂中に安置し奉斎鎮座し給う。宝亀3年(772年)なり。
其の後、異変により、土中に入り給う。
平清盛公、六波羅在住の頃、此の地は浅水の森と称し風光明媚なる処、承安年中此の地に別邸造営在住す。西八条御所と唱(となえ)り。
仁安元年(1166年)8月、熊野詣で給う時、御告げあり、土中に隠れたる御神体、世に出し奉斎せよ。
平清盛公、帰京の後、公が邸内探したる所、東方築山より夜光を放つ。清盛公歓喜して自ら三尺穿(うが)ち給へば土中より若一王子の御神体現わる。
社を造り鎮守し開運出世を祈り給へば、翌年仁安2年(1167年)2月10日太政大臣に任ぜられる。・・・・・・」とある。
そして、西八条殿鎮守社を冠する若一神社には、手水舎傍に「平清盛公西八条殿跡」の石標が建っている。
中村重義宮司の奥さんの話を聞くと、
「・・・東は大宮七条から西大路の御所の内町辺りまで、梅小路公園から八条までが、平氏の西八条殿の館があったと言い伝えられています。・・・御所の内町の名は、わずかな期間でしたが、治承年間清盛の孫となる安徳天皇の御所となった名残で・・・」と、丁寧に説明して貰えた。
境内にある「平清盛石像」「平清盛公ゆかりの御神水」「祇王歌碑」を眺めながら、在りし日の煌びやかな西八条殿を空想し、断片的に知りえる事柄の連想ゲームを楽しませて貰った。
社伝にある「承安年中此の地に別邸造営在住す」とある「承安(1171年〜)」の年号は、清盛熊野詣の「仁安(1166年〜)」の年号より5年後となる。
すると、清盛が邸宅地を西八条に保有しており、若一神社を鎮守社として祀り、その5,年後頃、別邸を造営し在住したと読める。
しかし、清盛は嘉応元年(1169年)3月に、福原に居を構え、承安年間は福原を舞台としているなどと、疑問を抱えていたが。
そんな若干理解に苦しむ時の矛盾や、平家物語の真偽の程や、些細な史実の違いなどが、どうでもよくなってきた。
間違いなくこの地に平氏が邸を連ね、清盛を筆頭に栄華の道を突き進み、公卿から政治の実権を奪い武家の地位を確立し、家族や子孫にその恩恵を与え、新しい歴史の扉を開いていったという事実の舞台を踏み歩くだけで充分であった。
六波羅での生活を経て、洛中に西八条殿と鎮守社を構え時子を置き、まわりに子供や一族郎党を住まわせ、参議から太政大臣へと、僅か8年で地位と名誉と権限を得た清盛は、ここから国づくりに着手する構えを見せたのであろう。
高倉天皇に嫁がせた娘建礼門院徳子が産んだ男子は3歳で即位し、安徳天皇となり、清盛はとうとう外祖父へと上り詰めたのである。
つまり、友好的な後白河法皇は王権を無くし、敵対する関係となり、清盛の独裁の時代へと突入していく時代の場所だったのだ。
政治、軍治、経済を離れた清盛を表わした件があった。
山塊記によると、「・・・ニ歳の東宮言仁親王(ときひと/後の安徳天皇)が西八条第に行啓し、清盛は終日微笑みを絶やさず、指を湿らし障子に穴をあけ、孫と戯れて感涙にむせんだとされる。・・・」と。
楠が生い繁り、緑陰が生み出す冷気に包まれた境内をあとに、梅小路公園に向かった。
梅小路公園に残された西八条殿の跡形は何一つなかった。
たった一枚の味気ない案内看板だけであった。
それでも、平成4年からの発掘調査による出土品の写真が、小生には救いである。
平氏の都落ちとともに焼き払われた西八条殿が、今となって、市民の広場になっていることは清盛の理想だったのかもしれないと思えてきた。
西大路通は幅広で南北に一直線の通りであるが、なぜか、八条の交差点のところだけが歪(いびつ)に出っ張っている。
道路にせり出た石垣の高台が西大路通を曲げ、高台には大きな楠が天に向かい、縦横無尽に太い枝を張り巡らせ、年中青々とした葉を繁らせている。
「若一神社」と染め抜かれた幟がはためいていた。
その石垣に近寄ると、「平清盛公 御創建社 仁安元年(1166年)」という案内板に、なんと「平清盛公 御手植楠」の札が建てられていた。
その大楠には注連縄がかけられ、見るからに神木然としていた。
石段をあがると、正面にある大楠の前には楠社(くすやしろ)の祠が建ち、脇には所狭しと大きな石灯籠が配置されている。
大楠は、樹齢850年を数えようとする古木で、高さ約9.5m、枝張り約13.9m、幹周り約3.61mの大木である。
現在の境内地は手狭で瀟洒であるが、樹齢600年を越す楠をはじめとして、社殿を囲うような樹齢200年を超える多数の楠といい、この御神木の大楠といい、それらの威容を誇る姿を見れば、往時の境内地がいかほどであったか、西八条殿跡を中心とした平氏の洛中の館の領域が、どんなに広大であったかが、容易に想像できるというものだ。
この大楠に纏わる話を聞いた。
仁安2年(1167年)、清盛が太政大臣に叙任した記念に植樹して以来、都落ちなど幾多の災難を、7世紀以上も乗り越えてきた大楠に、人為的な危機が訪れたという。
昭和9年(1934年)、今はなき西大路通を走っていたチンチン電車の敷設路面工事の際、工事関係者に不幸な事が続き祟りやもしれないと、また大楠を移動させるには難工事に過ぎると、侃々諤々(けんけんがくがく)の議論の末、最終的には伐採も移動もされず、残されることが決まったらしい。
しかしながら、道路幅にあたる箇所まで根は地中を這い、その根は人の胴ほどもあったという。それらは完全に取り除くことはできず、敷設工事に支障をきたすところを切断し、掘り起こすに留めざるを得なかったようだ。
西八条殿跡となる梅小路公園には何一つ、清盛や西八条殿を偲ぶものは残されていないとなると、若一神社に伝わる大楠は、唯一の清盛の遺産ではないだろうか。
そして、高台の北端に注連縄のかかる妙な岩が鎮座している。
その岩の隣には、「若一神社御神蹟」の石碑が建っていた。
そこで、若一神社の由緒を社伝に頼ると、
「光仁天皇の御代、唐より威光上人来り、天王寺に住し、紀州熊野に詣でし折り、迷い苦しむ人々を救わんと、御分霊若一王子の御神体を笈(おい)に負い旅立ち当地に来り、森の中の古堂に一夜を明かし御神意に従い堂中に安置し奉斎鎮座し給う。宝亀3年(772年)なり。
其の後、異変により、土中に入り給う。
平清盛公、六波羅在住の頃、此の地は浅水の森と称し風光明媚なる処、承安年中此の地に別邸造営在住す。西八条御所と唱(となえ)り。
仁安元年(1166年)8月、熊野詣で給う時、御告げあり、土中に隠れたる御神体、世に出し奉斎せよ。
平清盛公、帰京の後、公が邸内探したる所、東方築山より夜光を放つ。清盛公歓喜して自ら三尺穿(うが)ち給へば土中より若一王子の御神体現わる。
社を造り鎮守し開運出世を祈り給へば、翌年仁安2年(1167年)2月10日太政大臣に任ぜられる。・・・・・・」とある。
そして、西八条殿鎮守社を冠する若一神社には、手水舎傍に「平清盛公西八条殿跡」の石標が建っている。
中村重義宮司の奥さんの話を聞くと、
「・・・東は大宮七条から西大路の御所の内町辺りまで、梅小路公園から八条までが、平氏の西八条殿の館があったと言い伝えられています。・・・御所の内町の名は、わずかな期間でしたが、治承年間清盛の孫となる安徳天皇の御所となった名残で・・・」と、丁寧に説明して貰えた。
境内にある「平清盛石像」「平清盛公ゆかりの御神水」「祇王歌碑」を眺めながら、在りし日の煌びやかな西八条殿を空想し、断片的に知りえる事柄の連想ゲームを楽しませて貰った。
社伝にある「承安年中此の地に別邸造営在住す」とある「承安(1171年〜)」の年号は、清盛熊野詣の「仁安(1166年〜)」の年号より5年後となる。
すると、清盛が邸宅地を西八条に保有しており、若一神社を鎮守社として祀り、その5,年後頃、別邸を造営し在住したと読める。
しかし、清盛は嘉応元年(1169年)3月に、福原に居を構え、承安年間は福原を舞台としているなどと、疑問を抱えていたが。
そんな若干理解に苦しむ時の矛盾や、平家物語の真偽の程や、些細な史実の違いなどが、どうでもよくなってきた。
間違いなくこの地に平氏が邸を連ね、清盛を筆頭に栄華の道を突き進み、公卿から政治の実権を奪い武家の地位を確立し、家族や子孫にその恩恵を与え、新しい歴史の扉を開いていったという事実の舞台を踏み歩くだけで充分であった。
六波羅での生活を経て、洛中に西八条殿と鎮守社を構え時子を置き、まわりに子供や一族郎党を住まわせ、参議から太政大臣へと、僅か8年で地位と名誉と権限を得た清盛は、ここから国づくりに着手する構えを見せたのであろう。
高倉天皇に嫁がせた娘建礼門院徳子が産んだ男子は3歳で即位し、安徳天皇となり、清盛はとうとう外祖父へと上り詰めたのである。
つまり、友好的な後白河法皇は王権を無くし、敵対する関係となり、清盛の独裁の時代へと突入していく時代の場所だったのだ。
政治、軍治、経済を離れた清盛を表わした件があった。
山塊記によると、「・・・ニ歳の東宮言仁親王(ときひと/後の安徳天皇)が西八条第に行啓し、清盛は終日微笑みを絶やさず、指を湿らし障子に穴をあけ、孫と戯れて感涙にむせんだとされる。・・・」と。
楠が生い繁り、緑陰が生み出す冷気に包まれた境内をあとに、梅小路公園に向かった。
梅小路公園に残された西八条殿の跡形は何一つなかった。
たった一枚の味気ない案内看板だけであった。
それでも、平成4年からの発掘調査による出土品の写真が、小生には救いである。
平氏の都落ちとともに焼き払われた西八条殿が、今となって、市民の広場になっていることは清盛の理想だったのかもしれないと思えてきた。
5442-120308-
関連歳時/文化
平清盛
大楠
太政大臣
山塊記
NHK大河ドラマ「平清盛」
大楠
太政大臣
山塊記
NHK大河ドラマ「平清盛」
写真/画像検索
関連コラム
平清盛といえば……
- 平清盛縁の地をゆく その十二
三条殿趾・高松神明神社 盛者必衰のあとかたを見る - 平清盛 縁の地をゆくその十一 三十三間堂
唄えば消え、唄い次ぐも、また唄い換え - 平清盛 縁の地をゆく その十 祇王寺
愛憎確執栄枯盛衰を垣間みる吉野窓 - 平清盛 縁の地をゆくその八 六波羅
おごれる人たけき者、我はなりたい - 平清盛 縁の地をゆくその七 厳島神社
宋と京を結ぶ安芸、兵庫築島 - 平清盛 縁の地をゆく その六 八坂神社
世のきしみが乱を呼ぶ - 平清盛 縁の地をゆくその五 北向山不動院
物の怪退散祈り、一願の護摩。 - 平清盛 縁の地をゆくその四 安楽寿院
これぞ骨肉相争うが如しの喩え - 平清盛 縁の地をゆく その三 鳥羽と平氏
源平合戦ファーストラウンド - 平清盛 縁の地をゆく そのニ 白河と鳥羽
ふところで舞ってこそ骨が切れる - 平清盛 縁の地をゆく その一 鳥羽殿
大革新は河原の納屋から始まった
太政大臣といえば……
- 続 秀吉が京都に残したもの 聚楽第
栄華と悲劇の記憶が埋もれた京を謎につつむ
山塊記といえば……
- 平清盛 縁の地をゆくその八 六波羅
おごれる人たけき者、我はなりたい
NHK大河ドラマ「平清盛」といえば……
- 平清盛 縁の地をゆくその八 六波羅
おごれる人たけき者、我はなりたい - 平清盛 縁の地をゆくその七 厳島神社
宋と京を結ぶ安芸、兵庫築島 - 平清盛 縁の地をゆく その六 八坂神社
世のきしみが乱を呼ぶ - 平清盛 縁の地をゆくその五 北向山不動院
物の怪退散祈り、一願の護摩。 - 平清盛 縁の地をゆくその四 安楽寿院
これぞ骨肉相争うが如しの喩え - 平清盛 縁の地をゆく その三 鳥羽と平氏
源平合戦ファーストラウンド - 平清盛 縁の地をゆく そのニ 白河と鳥羽
ふところで舞ってこそ骨が切れる - 平清盛 縁の地をゆく その一 鳥羽殿
大革新は河原の納屋から始まった