唄えば消え、唄い次ぐも、また唄い換え

平清盛 縁の地をゆくその十一 三十三間堂 by 五所光一郎

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♪遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。

NHK大河ドラマ平清盛」を見る度に耳にしている曲である。
始まりのタイトルバックでは、白拍子が舞いながら唄い、劇中ではあの忠盛も口ずさみ、エンディングにも流されている。
曲はドラマの為に作曲されたもので、詞は平安時代の今様歌を集めた「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」に納められているものだ。(巻第二359)

直訳すると、「遊ぶために生まれて来たのだろうか。戯れるために生まれて来たのだろうか。無心に遊ぶ子供たちの声を聞いていると、自分の身体も自然と動き出してくるようだ」となる。解釈に諸説あるものの、「面白う生きてやる」との清盛の台詞と相通じ、毎回のドラマ全編に流れるテーマとなっている気がする。

今様歌は古様(神楽歌・催馬楽)に対して今様と称され、当時の最新の流行歌という意味であった。
最新の歌謡曲を格好よく踊りながら、民衆は即興で思いを綴り唄い、興じていたのである。さしずめ、白拍子は今でいうニューカマーのシンガーソングライターであり、ダンサーで、エンタティナー界のアイドルだったのか。

貴族は和歌を詠み、それを記していたが、民衆にはその文化はなかった。
今様は唄えば消え、唄い次ぐも、またその時の気分で唄い換えられていくものであった。

頭に金の立烏帽子をつけた水干姿で、大和絵の桧扇を持ち、白鞘巻の太刀を下げて男振りで舞い踊る白拍子は、男装の麗人で、当時最も進んだファッションリーダーだったのであろう。平安末期、市中の民衆から始まり、武家や貴族や僧侶までも、皆が虜になっていったのである。


白河院はその魁ということか。清盛の祇王仏御前も思い浮かぶ。

今様を愛した後白河天皇(雅仁親王/1127〜1192年)は、白河院の孫で鳥羽院の第四皇子であったが、既に鳥羽院の譲位により崇徳天皇が1123年に即位し、皇位継承とは無縁の立場にあったため、自由奔放な皇子として育っていたようだ。

少年期は遊興、賭博に明け暮れ、市中に流行る今様に夢中で、時に常軌を逸する言動をとることから、朝廷ではうつけものの皇子として扱われていたようだ。
そんな我が儘奔放な行動は、旧来の体制に反発する清盛と相通じるものがあり、9歳の違いはあるが引き合い、やがて友となって行くのである。

十代の頃より今様に夢中だった後白河は、天皇に即位後30歳になった頃に、70歳を超えていた祇園女御に、更に今様を習いはじめ10年以上も習い通っていたらしい。
そして、今様の唄い方と詞を残すべく、後白河法皇の手で編纂されたのが、「梁塵秘抄」だったのである。つまり、平安時代の今様のベスト歌謡曲集保存版ということになる。

「梁塵」とは、唄うその響きで建物の梁(はり)の塵(ちり)が動き、3日間舞い続けたという中国故事に因んだタイトルで、他に類を見ないほどの感動を齎す素晴らしい歌との意味を表わしている。

後白河法皇は「梁塵秘抄口伝」に、
今様を好みて怠る事なし。昼はひねもすうたひ暮し、夜はよもすがら 唄ひ明さぬ夜はなかりき」と、自らの今様狂いを記している。

今様は、「神仏を思う歌」、「流行を唄う歌」、そして「民衆の感情を唄う歌」とに大別できるが、漢詩、和歌にはじまる平安時代に、俗謡といえど民意や流行を捉えるものは新奇で、乱世にあって、朝廷も無関心ではいられなかったであろう。

後白河法皇は、愛した今様からいち早く民意を汲み取り、祭りごとを行う手法に気づいていたとの推論は容易に立てられそうだ。
まさに、「歌は世につれ 世は歌につれ」で、往時に今様を馬鹿にせず、新しい方向を捉えられることだと、後白河法皇だけが心に気づいていたのだろうか。

久寿2年(1155年)、近衛天皇崩御(享年17歳)により、鳥羽院政は立太子のないまま、重仁(崇徳院弟一皇子・鳥羽院養子)、雅仁(鳥羽院第四皇子)、守仁(雅仁の弟一皇子)の三人の候補が挙げられたが、緒論あるところ、幼少の守仁親王の中継ぎとして父後白河天皇を即位させた。

その翌年5月鳥羽法皇が病に倒れると、後白河体制が未だ固まらない状況下、崇徳上皇に摂関家の主導権争いが加わり、暗雲が立ち込め、7月鳥羽法皇崩御とともに急変、保元の乱となった。
源義朝、平清盛らの白河殿への夜襲、火打ちにより、後白河天皇は崇徳上皇を打ち破り天皇軍は勝利した。

勝利間もない保元3年(1158年) 後白河天皇は譲位、予定通り二条天皇(守仁親王)を即位させ、後白河院政を敷くことになったのである。この年、平滋子(のちの建春門院/平時子と姉妹)が後白河上皇の后となった。
翌平治元年、平治の乱により義朝ら源氏を破った清盛率いる平氏と、後白河院政の蜜月の始まりとなる。

永暦元年(1161年)から法住寺を取り囲むように、院御所となる法住寺殿の建設が始まった。その敷地は十余町、平家を後ろ盾にした上皇の権威で、周囲の建物は取り壊され、広大な敷地に南殿、西殿、北殿の三御所がつくられた。

古地図を頼りにその場所に出向いた。
その広大な敷地であった場所には、京都国立博物館やハイアットリージェンシーホテル、赤十字血液センターが並び、その南に、後白河天皇法住寺陵と法住寺があった。しかし、当時の広大な面影を偲べるものではない。

それよりも、その西向かいにある三十三間堂である。
後白河院と平家の栄華を象徴する法住寺殿の名残が感じられるところだ。
広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂、今に言う三十三間堂である。

長寛2年12月(1165年)、清盛の資材寄進により完成した蓮華王院は、五重塔なども建つ本格的な寺院であったという。往時は朱塗りの柱のまばゆい外部に、内部の天井や壁は極彩色で彩られていたという。
現在の法住寺から西を眺めると、朱塗りの塀越しに見える大屋根がその面影を想像させてくれた。

堂内中央に国宝本尊千手観音坐像が安置され、その左右には階段状の壇に1,000体の千手観音立像が各10段50列に並べられている。実に荘厳だ。
千手観音立像は本尊の背後にも1体あるというから、全部で1,001体である。
更に、内陣の左右両端には左に風神像、右に雷神像が安置され、千体仏の前には二十八部衆像が横一列に並び、この世とは思えない光景を目にした。

清盛が創建した新熊野社法住寺殿内だったのだから、その広さに改めて驚かされた。そのあと、新日吉神宮、新熊野神社へと回った。

後日知ったことだが、法住寺の住職が独自の節で、梁塵秘抄今様を聞かせてくれるという。是非、再度出かけたいと思う。


遊びをせんとや
http://www.youtube.com/watch?v=vCGAVsPd74E
蓮華王院 三十三間堂 
http://sanjusangendo.jp/index.html


【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
5444-120322-

関連歳時/文化
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