におう梅花、匂う女御におどる男、はかなし

小野小町ゆかりの随心院の観梅会 by 五所光一郎

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平成24年の梅の開花は寒さの為に大幅に遅れた。
そのお蔭で、4月の声を聞こうとしているのに、各地の満開見頃が続いている。
真言宗善通寺派大本山随心院からの「名勝小野梅園公開期間延長のお知らせ」では、4月8日まで公開するとある。

随心院の春季特別公開観梅会は、例年なら3月1日からの一ヶ月間である。
期間中には、能の間にて能面を飾る「真善美展」や、「はねず踊りと今様」が披露される日もあり、観梅で北野天満宮に次ぐ賑わいを見せている。

その山科小野にある隨心院門跡の紅梅を、同寺周辺では古くから「はねず」と愛称しているが、「はねず」とは薄紅色のことであった。

では、はねず踊りとは何かと尋ねると、「小野のお寺の踊りでござる」「小野小町ゆかりの舞踊」だという。

境内の駒札によると、「・・・・・梅の美しい寺として有名で・・・小野小町に恋した深草少将の百夜通いの悲恋伝説をテーマにした はねず踊りが披露される。」とあり、更に境内を、梅の香漂う梅園を横手に見ながら庫裏の方へと進むと、「小野小町歌碑」の横に立つ謡曲史跡保存会の説明札が立つ。

[ 謡曲「通小町」の前段、即ち深草少将が小町の許に百夜通ったという伝説の舞台がここ隨心院である。
その頃小町は現在の隨心院の「小町化粧の井」付近に住んでいた。
積る思いを胸に秘めて訪ねて来た少将であったが、小町は冷めたかった。
少将は「あなたの心が解けるまで幾夜でも参ります。今日は第一夜です」と、その標(しるし)に門前の“榧(かや)の木”の実を出した。
通いつめた九十九夜−その日は雪の夜であった。門前にたどり着いた少将は疲れ切って九十九個目の“榧の木”を手にしたまま倒れ再起出来なかった。という。
隨心院の境内には思い出の「文張地蔵尊」「文塚」があり、道筋には“榧の大木”がある。]
と、案内されていた。

 その後、小町は晩年この地に暮らし、毎年「はねず」の咲く頃になると、老いの身も忘れたように里の子供たちの家々をまわり遊び、庭で歌舞を踊り楽しい日々を過ごしたと伝わる。

江戸時代に、その通小町の伝説が歌にされ、梅の咲く頃、里の子供達が家々を回って披露する習わしになったという。
その習わしは大正期まで続き中断していたが、古老ら地元住民により、昭和48年(1973年)に現在の「はねず踊り」が考案復活され、毎年の恒例行事となっているものであるという。

小野小町といえば、古典落語「猿後家」の「小野小町か楊貴妃か」との言い回しがあるように、絶世の美女として誰もが知っている名である。
しかし、その顔を描いたものは残されていない。わずかに艶やかな黒髪の後姿の画が後世に描かれているばかりだ。

平安時代初期に活躍した六歌仙・三十六歌仙の一人として、夢でしか会えない人を想う、華やかなで美しい歌を多く詠い、「古今和歌集」など勅撰に残る小町の名前は総計67首にも及ぶ。
その中の、巻二春歌
「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に」は、百人一首にも選ばれ、一般人でも諳(そら)ずるものが多い。

それほどの小町だが、生地生年は不明、経歴不詳、没したであろう所も諸説あり、墓地も全国に点在する。
恋歌などから、いい寄ってくる男性を拒絶する女性というイメージが作り上げられ、数多くの伝説が創りだされ、能や謡曲、御伽草子に浄瑠璃、これらの格好の創作脚色の台本を生んだのかも知れない。

当然のことながら出自も定かでなく、一説に、小野篁(たかむら/802〜853年)の息子である出羽郡司・小野良真の娘とされ、第54代仁明天皇(810〜850年)の更衣(後宮の女官小野吉子)として宮仕えをし、その後、数多くの求愛にもなびかず、全国各地を渡り歩いたとするも、年代に矛盾が生じ定かでなく、複数の美人を唯一の仮想美人伝説に、仕立て上げられたとする考えも捨てきれない。

然しながら、あの紀貫之(866?〜946?年)は古今和歌集の仮名序文に、
小野小町は、いにしへの衣通姫(そとほりひめ)の流なり。あはれなるやうにて強からず。いはば、よき女(をうな)の悩めるところあるに似たり。つよからぬ女の歌なればなるべし。」と記し、記紀にのこる神話美人の系統で、しみじみと趣深いが強さに欠け、美女が悩んでいる風情である。強さがないのは女の歌だからであろうと、悩める絶世の美女らしいと絶賛しているのである。

才色兼備の名を欲しいが侭にした女性が、恋の悩みであくせくしているうちに、匂うがごとき容色も衰えたと嘆き、自戒していたことは事実であり、その場所が随心院境内となると興味はかきたてられる。

その山科小野は、地名にも残るように小野氏が栄え、一族郎党が住んだところである。百夜通い(ももよがよい)させた謎多き小野小町が隠遁したところへと、足は自然と向かう。

時代祭で見る小町の装束は女神のような衣装で、他では見られないものだが、飾ってあるのだろうか。

総門を潜り暫く行くと、右手にはねずの梅を中心に約230本の紅白梅が花を開かせていた。近寄ると芳しい香りが鼻を擽る。遅咲きの梅が更に遅く開花したので、満開は月を跨ぐことになろう。

境内の梅園を歩いたあと、右側を薬医門の方へと進み、小町屋敷跡である「小町化粧の井」から「文塚」へと回りこんだ。
小町化粧の井」は、この井戸に自らの姿を映して、毎日身支度を整えたと伝えられる井戸である。
文塚は丁度本堂の裏あたりで、塀を挟んだ雑木林の中にあった。
千通の恋文が納められているという。

漆喰が落ちた土塀は、年月を感じさせる味わいがあり、小町が容色の衰えを嘆くのは可笑しく思えた。
老いても、歌い囃して、はねず踊りを見せながら子供達と楽しむ小町の晩年の姿を想像してみた。

ぐるりと一周して庫裏に上がり拝観する。
廊下づたいに奥書院の襖絵などを眺め本堂へお参りして、書院、能の間の縁に腰を下ろし、しばし庭園鑑賞をして休憩を取る。庭には「はねず」は植わっていなかった。

表玄関から薬医門越しに外に目を遣ると、梅園の方から甘い梅の香りが届いてくるような錯覚を覚えた。
帰り際に、水にとける蓮弁の祈願をしてみた。

月あけの土曜日7日には、「小町手作り市」があると聞く。小野梅園の見頃見納めを兼ねて、再度出向きたくなっている。

随心院
http://www.zuishinin.or.jp/


【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
5445-120329-3月

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