本法寺を堀川通に出て下ると、一筋目が寺の内通である。
寺の内通を左東へ曲がると、人形寺として知られる宝鏡寺がある。その塀沿いに東に進むと小川通で、更に50メートルほど塀沿いに行く。
寺の内幼稚園の漆喰の塀の上に、葉をつけた枝の中で、また十月桜が咲いていた。
十月桜は、「お会式桜(おえしきざくら)」とも呼ばれ、日蓮聖人入滅の旧暦10月13日頃から咲きはじめ、翌年の3月まで咲き続けている。そして、お釈迦様聖誕の4月8日頃に、もう一度また咲き始めるという珍しい桜である。
日蓮宗の宗祖の亡くなられた聖日(せいじつ)を「お会式」と呼び習わすことから、この十月桜がお会式桜と呼ばれるようになっているのだ。
お会式桜を見終わり、先に進むと、華やかに咲く二本の枝垂れ桜が出迎えてくれているではないか。
気持ちがパァッーと明るくなった。顔の筋肉が自然と緩んでしまう。
その二本は薄紅色の紅枝垂れ桜と、桜色の枝垂れ桜である。優しい色の出に共鳴して、心までもが和んでくる。
小門前の角に、以前にはなかった「大本山妙顯寺」の石碑がある。
大覚大僧正の650年遠忌の報恩として、本堂の大屋根の改修工事が今年も続いているが、遠忌の事業が一歩づつ進んでいるのだろう。
寺院縁起の刻まれた石板が移動され建てられていた。その奥の小門傍には、以前から建つ記憶にもある石碑があった。
その石碑は、妙顯寺の墓地には「尾形光琳」の墓碑が立っていると知らしている。
尾形光琳(1658〜1716年)と尾形家一族の埋葬地で菩提寺である、塔頭興善院の跡地に再建されたのが塔頭泉妙院である。その泉妙院には供養碑と供養塔が建ち、光琳の血族の小西得太郎と共に、株式会社三越が明治時代より施主となり、毎年光琳忌法要が営まれているらしい。
妙顯寺には、泉妙院をはじめとして、現在九ヶ寺の塔頭がある。
また、塔頭が取り囲む境内には本堂のほか、三菩薩堂、御真骨堂、尊神堂、大玄関と方丈などの大きな建築物が建ち並んでいる。現在の鐘楼の場所には五重塔も建っていたという。正に大寺院である。
縁起を寺伝に尋ねると、
「四海唱導妙顯寺は山号を具足山、又の名を龍華といって、日蓮大聖人の孫弟子になる、日像聖人が六百六十余年の昔、創建(1321)された関西法華宗団の根本をなす由緒ある寺で、大本堂の両柱に掲げられた聯に「宗祖直授の大導師として、妙法の教を弘め、法華宗号の発祥をなし、勅願寺として四海唱導の公許を誇る、日本国中の宗門の棟梁の零場である」(文意)とある通り、創立以来法華下第一の誉れを伝え、都の法華門下派廿一本山(現在は十六)の正に草分けであり、中心的存在として今日に至っているが度々の法難をうけ、殊に天文の法乱では破壊的な打撃を受け、信長秀吉等の弾圧もあり、寺地も変ること四度と伝えられます。
明治に入って法華各宗派が大合同し、身延山を祖山と仰いで日蓮宗が結成されてからは、その大本山として全国に三百余の末寺を統率していたが、昭和十六年の制度改革によって、全ての末寺を教団に解放し、今は名称のみを伝えているのが現状であります。」とあった。
勅命で三度も都を追放される法難の末、後醍醐天皇より洛内に寺地を賜って、元亨元年(1321年)妙顯寺は創立されたのである。
寺院には、「妙顯寺を勅願寺となす。殊に一乗圓頓の宗旨を弘め、四海泰平の精祈をこらすべし」との御綸旨が、今も残されている。
やがて法華教団は都の人口の半ばまでもの信者を擁し、町衆文化や、経済の中心勢力をも掌握するほどに飛躍し、室町期に最盛期を迎えた。
その後、1536年に天文法華の乱で伽藍は焼失したが、天正11年(1583年)に豊臣秀吉の命により、現在の地に移転再建された歴史がある。
大門にかかる門札に刻まれた文字が金色に光る。
讃えるかのように咲き誇る紅しだれ越しにみえる門札が眩しい。
日像聖人(1269〜1342年)、その弟子の大覚大僧正(1297〜1364年)の功の一旦がこの地に覗えるように思えた。
大門を潜り参道を歩くと松の緑に桜色が混じっている。本堂の養生の屋根が取れればどんな光景となるのだろう。甍の見えていた三年前の光景が薄らいでいく。
境内のあちこちにはソメイヨシノが見頃に咲き放っていた。
方丈の紅枝垂を目指すが、工事の養生が前より更に広がり本堂東横が通り抜けれない。仕方なく、花に包まれた鐘楼の東へと出て、塔頭の並ぶ小径を歩いた。小門から続く道で、茶道会館や茶道家元の自宅も軒を連ねていた。
本堂の北裏にあたるところに方丈入口がある。
正面に庫裏、右手に大玄関と、その向こうに客殿の大屋根が望める。
またまた優しく気品に溢れ、華やかな枝垂桜を目にすることができた。
言葉を失いそうな薄紅色にうっとりするばかりである。ここに花見客などはいなかった。
公開されていた庭園など拝観したいところだったが、先を急ぎ妙蓮寺へと向かう。来た道、寺の内通を堀川へと戻る。堀川通をはさみ、ほぼ妙顯寺と対象の位置に妙蓮寺がある。
妙蓮寺へ来るのは芙蓉の咲く時期以来である。
山門を潜り突如として現れる大きな鐘楼の堂々とした姿にいつも驚かされる。参道を挟んで鐘楼の筋向いの角に咲く「お会式桜」と寺務所前に咲く「妙蓮寺椿」が、よく知られている。
日像上人を開基とする本門法華宗の大本山で、天正15年(1587年)豊臣秀吉の聚楽第造営のときに現在地に移っている。玄関・奥書院には長谷川等伯一派の筆といわれる濃彩の金碧画の襖絵があり、秀吉が寄進の臥牛石や、本阿弥光悦の筆になる日蓮の立正安国論写本などの寺宝があると聞く。
お会式桜を眺めていると、近所の人らしき老婆が話しかけてきた。
「知っといやすか、この桜の花びらを持ち帰ったら、色恋が成就しますねんえ。けどな、枝ごと折ったらあきまへん。手折った恋は実りませんのや。散った花びらを拾うんどっせ。」と、教えてくれた。
本堂から読経が聞こえる。誘われるように前庭を歩いた。
塔頭八ヶ寺とソメイヨシノが本堂を囲むように咲いていた。
少々地味かもしれないが、日像聖人像を桜の枝越しに見るのも実に絵になる光景である。
妙蓮寺をあとにして、寺の内通を西へ千本通を越え七本松通を下る、千本釈迦堂を経て北野商店街に向かった。
北野商店街のある中立売通を過ぎれば、右手にあるのが立本寺である。
立本寺といえば、鐘のない鐘楼に60鉢の蓮、幽霊飴に鬼子母神堂を思い出す。しかし、春はやっぱり山門から本堂への参道を被うソメイヨシノだ。
山門を通り下校する小学生に出会った。下町の匂いを感じるいい光景である。すれ違うように境内に入り桜のトンネルを歩いた。その桜の枝には、あちこちとなにやら標語が吊るされている。
「神仏に合掌すれば信心となり 父母に合掌すれば孝行となり お互いに合掌すれば平和となる」
吊るされた説法のひとつである。
頷かされた。心がければ、すぐ今からできるものばかりだった。
寺伝や縁起など知らずとも、この寺の品性が伝わってくる。
大きな本堂の前まで桜の天井は続き、本堂前に薄紅色の濃淡に咲き分けた枝垂れ桜が微笑んでいた。
妙顯寺
http://shikaishodo.com/
妙蓮寺
http://www.eonet.ne.jp/~myorenji/
立本寺
http://honzan.ryuhonji.nichiren-shu.jp/
【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
寺の内通を左東へ曲がると、人形寺として知られる宝鏡寺がある。その塀沿いに東に進むと小川通で、更に50メートルほど塀沿いに行く。
寺の内幼稚園の漆喰の塀の上に、葉をつけた枝の中で、また十月桜が咲いていた。
十月桜は、「お会式桜(おえしきざくら)」とも呼ばれ、日蓮聖人入滅の旧暦10月13日頃から咲きはじめ、翌年の3月まで咲き続けている。そして、お釈迦様聖誕の4月8日頃に、もう一度また咲き始めるという珍しい桜である。
日蓮宗の宗祖の亡くなられた聖日(せいじつ)を「お会式」と呼び習わすことから、この十月桜がお会式桜と呼ばれるようになっているのだ。
お会式桜を見終わり、先に進むと、華やかに咲く二本の枝垂れ桜が出迎えてくれているではないか。
気持ちがパァッーと明るくなった。顔の筋肉が自然と緩んでしまう。
その二本は薄紅色の紅枝垂れ桜と、桜色の枝垂れ桜である。優しい色の出に共鳴して、心までもが和んでくる。
小門前の角に、以前にはなかった「大本山妙顯寺」の石碑がある。
大覚大僧正の650年遠忌の報恩として、本堂の大屋根の改修工事が今年も続いているが、遠忌の事業が一歩づつ進んでいるのだろう。
寺院縁起の刻まれた石板が移動され建てられていた。その奥の小門傍には、以前から建つ記憶にもある石碑があった。
その石碑は、妙顯寺の墓地には「尾形光琳」の墓碑が立っていると知らしている。
尾形光琳(1658〜1716年)と尾形家一族の埋葬地で菩提寺である、塔頭興善院の跡地に再建されたのが塔頭泉妙院である。その泉妙院には供養碑と供養塔が建ち、光琳の血族の小西得太郎と共に、株式会社三越が明治時代より施主となり、毎年光琳忌法要が営まれているらしい。
妙顯寺には、泉妙院をはじめとして、現在九ヶ寺の塔頭がある。
また、塔頭が取り囲む境内には本堂のほか、三菩薩堂、御真骨堂、尊神堂、大玄関と方丈などの大きな建築物が建ち並んでいる。現在の鐘楼の場所には五重塔も建っていたという。正に大寺院である。
縁起を寺伝に尋ねると、
「四海唱導妙顯寺は山号を具足山、又の名を龍華といって、日蓮大聖人の孫弟子になる、日像聖人が六百六十余年の昔、創建(1321)された関西法華宗団の根本をなす由緒ある寺で、大本堂の両柱に掲げられた聯に「宗祖直授の大導師として、妙法の教を弘め、法華宗号の発祥をなし、勅願寺として四海唱導の公許を誇る、日本国中の宗門の棟梁の零場である」(文意)とある通り、創立以来法華下第一の誉れを伝え、都の法華門下派廿一本山(現在は十六)の正に草分けであり、中心的存在として今日に至っているが度々の法難をうけ、殊に天文の法乱では破壊的な打撃を受け、信長秀吉等の弾圧もあり、寺地も変ること四度と伝えられます。
明治に入って法華各宗派が大合同し、身延山を祖山と仰いで日蓮宗が結成されてからは、その大本山として全国に三百余の末寺を統率していたが、昭和十六年の制度改革によって、全ての末寺を教団に解放し、今は名称のみを伝えているのが現状であります。」とあった。
勅命で三度も都を追放される法難の末、後醍醐天皇より洛内に寺地を賜って、元亨元年(1321年)妙顯寺は創立されたのである。
寺院には、「妙顯寺を勅願寺となす。殊に一乗圓頓の宗旨を弘め、四海泰平の精祈をこらすべし」との御綸旨が、今も残されている。
やがて法華教団は都の人口の半ばまでもの信者を擁し、町衆文化や、経済の中心勢力をも掌握するほどに飛躍し、室町期に最盛期を迎えた。
その後、1536年に天文法華の乱で伽藍は焼失したが、天正11年(1583年)に豊臣秀吉の命により、現在の地に移転再建された歴史がある。
大門にかかる門札に刻まれた文字が金色に光る。
讃えるかのように咲き誇る紅しだれ越しにみえる門札が眩しい。
日像聖人(1269〜1342年)、その弟子の大覚大僧正(1297〜1364年)の功の一旦がこの地に覗えるように思えた。
大門を潜り参道を歩くと松の緑に桜色が混じっている。本堂の養生の屋根が取れればどんな光景となるのだろう。甍の見えていた三年前の光景が薄らいでいく。
境内のあちこちにはソメイヨシノが見頃に咲き放っていた。
方丈の紅枝垂を目指すが、工事の養生が前より更に広がり本堂東横が通り抜けれない。仕方なく、花に包まれた鐘楼の東へと出て、塔頭の並ぶ小径を歩いた。小門から続く道で、茶道会館や茶道家元の自宅も軒を連ねていた。
本堂の北裏にあたるところに方丈入口がある。
正面に庫裏、右手に大玄関と、その向こうに客殿の大屋根が望める。
またまた優しく気品に溢れ、華やかな枝垂桜を目にすることができた。
言葉を失いそうな薄紅色にうっとりするばかりである。ここに花見客などはいなかった。
公開されていた庭園など拝観したいところだったが、先を急ぎ妙蓮寺へと向かう。来た道、寺の内通を堀川へと戻る。堀川通をはさみ、ほぼ妙顯寺と対象の位置に妙蓮寺がある。
妙蓮寺へ来るのは芙蓉の咲く時期以来である。
山門を潜り突如として現れる大きな鐘楼の堂々とした姿にいつも驚かされる。参道を挟んで鐘楼の筋向いの角に咲く「お会式桜」と寺務所前に咲く「妙蓮寺椿」が、よく知られている。
日像上人を開基とする本門法華宗の大本山で、天正15年(1587年)豊臣秀吉の聚楽第造営のときに現在地に移っている。玄関・奥書院には長谷川等伯一派の筆といわれる濃彩の金碧画の襖絵があり、秀吉が寄進の臥牛石や、本阿弥光悦の筆になる日蓮の立正安国論写本などの寺宝があると聞く。
お会式桜を眺めていると、近所の人らしき老婆が話しかけてきた。
「知っといやすか、この桜の花びらを持ち帰ったら、色恋が成就しますねんえ。けどな、枝ごと折ったらあきまへん。手折った恋は実りませんのや。散った花びらを拾うんどっせ。」と、教えてくれた。
本堂から読経が聞こえる。誘われるように前庭を歩いた。
塔頭八ヶ寺とソメイヨシノが本堂を囲むように咲いていた。
少々地味かもしれないが、日像聖人像を桜の枝越しに見るのも実に絵になる光景である。
妙蓮寺をあとにして、寺の内通を西へ千本通を越え七本松通を下る、千本釈迦堂を経て北野商店街に向かった。
北野商店街のある中立売通を過ぎれば、右手にあるのが立本寺である。
立本寺といえば、鐘のない鐘楼に60鉢の蓮、幽霊飴に鬼子母神堂を思い出す。しかし、春はやっぱり山門から本堂への参道を被うソメイヨシノだ。
山門を通り下校する小学生に出会った。下町の匂いを感じるいい光景である。すれ違うように境内に入り桜のトンネルを歩いた。その桜の枝には、あちこちとなにやら標語が吊るされている。
「神仏に合掌すれば信心となり 父母に合掌すれば孝行となり お互いに合掌すれば平和となる」
吊るされた説法のひとつである。
頷かされた。心がければ、すぐ今からできるものばかりだった。
寺伝や縁起など知らずとも、この寺の品性が伝わってくる。
大きな本堂の前まで桜の天井は続き、本堂前に薄紅色の濃淡に咲き分けた枝垂れ桜が微笑んでいた。
妙顯寺
http://shikaishodo.com/
妙蓮寺
http://www.eonet.ne.jp/~myorenji/
立本寺
http://honzan.ryuhonji.nichiren-shu.jp/
【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
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