春祭酣(たけなわ)と言う使い方をするので、春祭(はるまつり)とは春に行われる祭りの総称であると誰もが理解している。
更に、日本国語大辞典にあるように、「その年の豊作と、悪疫の流行を防ぐことなどを願って、新春に稲作に先だって行なう予祝の祭。」との説明も、春といえば陰暦の2月から4月を指すことも、同様であろう。
そこで祭月といえば、「その土地の主要な祭のある月」となるのだが、京都では、5月の葵祭なのか、7月の祇園祭なのかと迷う方がいる。
しかし、古来より、「祭月」といえば、「賀茂祭(葵祭)の行われる陰暦四月」を指し、平安中期、都の最大の祭りとなった賀茂祭の執り行われる陰暦四月の異名であったのだ。
その賀茂祭のメインは、現在のような路頭の儀で見る王朝絵巻の雅な行列ではなく、社頭の儀のあとの「走馬」や「山駈け」であり、15日までに行われる前儀、「足汰式(あしぞろえしき)」、「流鏑馬神事(やぶさめしんじ)」、「歩射神事(ぶしゃしんじ)」、「賀茂競馬(かもくらべうま)神事」などであった。
それらは山城国の勇壮な祭礼を受け継ぐもので、その荒っぽさを見物するために多くの人馬が集まった祭礼だったのである。
葵祭の行列の先頭は乗尻である。その乗尻が主役を務める葵祭の神事が賀茂競馬会(かもくらべうまえ)で、早馬の速さを競う天下の壮観を、菖蒲の節句の5月5日に見せていたのである。
その同日5日は、市内各所の氏神で祭礼が行われている中、馬の神様として知られる伏見の藤森神社でも駈馬(かけうま)神事の奉納が行われていたのである。
「賀茂競馬(かもくらべうま)神事」と同様に、京都市登録無形民俗文化財に指定されている誇り高きものだった。
社伝によると、古来、早良親王が、天応元年(781年)に陸奥の反乱に対し、征討将軍の勅を受け、藤森神社に詣でて戦勝を祈願し出陣された。その出陣の日が5月5日で、駈馬神事の始まりであるという。
室町時代には、衛門府出仕武官により、江戸時代には、伏見奉行所の、衛士警護の武士や、各藩の馬術指南役、町衆らが、「寿及左馬の一字書き」、「藤下がり」、「手綱潜り」、「横乗り」、「逆立ち(杉立ち)」、「矢払い」、「逆乗り(地藏)」等の他、数種の技を、競いあったものであると、続く。
実に1200年を超える、平安京遷都以前の古き時代からの歴史があるではないか。
駈馬奉納の演目は、どうやら曲技のようである。
賀茂競馬会は荒馬の速さを競うのに対して、駈馬神事は早馬ではなく、江戸時代中期に大陸系の曲芸的な馬術の影響を受けたものとなり、戦でのアクロバット的な妙技を披露するスリリングなものであった。
南門から拝殿に向かう参道は馬場に姿を変えていた。
左に第一紫陽花苑、右に宝物殿を見て、南門より拝殿に向かって馬は駈けるのである。
馬場を囲うように柵が張り巡らされ、陣取った大勢の観客で人垣ができていた。
境内の神寂びた木立は、厳粛な空気に一層の緊張感を齎している。
いよいよ駈馬が始まる。
手元に持ってきた演目のメモを開け、読み返す。
一、手綱潜り/敵矢の降りしきる中、駈ける技
二、逆乗り(地藏)/敵の動静を見ながら、駈ける技
三、矢払い/敵矢を打払いながら、駈ける技
四、横乗り/敵に姿を隠して、駈ける技
五、逆立ち(杉立ち)/敵を嘲りながら、駈ける技
六、藤下がり/敵矢の当たったと見せて、駈ける技
七、一字書き/前線より後方へ情報を送りながら、駈ける技
騎乗した乗り子が拝殿から南門へとゆっくりと向かう。
馬は三頭だった。全演目見れるのだろうか。
場内にアナウンスが流れた。いよいよである。
白旗が揚げられた。
土埃が舞う。鳥居の下から駈けだしたようである。
高らかな蹄の音が迫ってきた。
どんどん近づいてくる。目の前を走りすぎる。
鬣(たてがみ)は揺れ、尾が水平に流れている。
紫の房は踊り、駈け抜けた。
疾走する馬上の出来事が嘘のようである。
緑の房が揺れている。乗り子が手綱を手から離した。
両手を高々と挙げている。馬はスピートを上げ駈ける。
手から蜘蛛の巣のように白いなにものかが広がった。
吹き散りのように棚引いている。
敵矢を打払いながら駈ける、矢払い(蜘払い)である。
赤い房をつけた白馬が疾走してきた。乗り子は馬の右片腹側に全身を移している。
馬の背と同じ高さに身を縮め、手綱など持たず、片手を馬の背に掛けているだけである。
落ちはしないかと思う。敵に姿を隠していたのだ。
進行方向とは逆さに乗ったり、頭を下げ両足を上げ馬上で倒立をしたり、敵矢の当たったと見せて片足掛けでぶら下がったり、馬上で板に筆書きしたりと、その迫力に息を呑む妙技が続く。
まるでサーカスを見るようなのである。
ライフジャケットを着けるわけでもない、命綱が着けられているわけでもない。
この日の乗り子はスーパーヒーローなのである。
そのあと、駈馬神事の終わった馬場に、行列が入ってきた。
藤森神社鼓笛隊の幟を先頭に、刀を肩掛けした袴姿の横笛を吹く子供達に、太鼓を叩く子供達の行進である。
そして続くのは、菖蒲で飾られた台車に、御幣のつけられた大榊が載せられ、神役の幟が続く。
氏子地区を巡行していた鼓笛隊と武者行列、七福神が戻ってきたのだ。
朝渡(あさわたり/御祭神早良親王東征の行装)、皇馬(こんま/清和天皇勅諚深草祭の行装)、払殿(ほって/神功皇后凱旋纛旗神祀の行装)など、武者の甲冑にも種々の種類があるようだ。興味は尽きない。
午後6時には、宮本下之郷、深草郷、東福寺郷の三基の神輿と女神輿が、巡幸から戻ってくるようだが、夕刻に先約があるので残念ながら迎えることができない。
今まで、紫陽花苑の時にしか出かけてこなかったので、神社の歴史に名残を惜しむべく、時間いっぱいまで、神域を散策することにした。
帰り際、西門に建つ石碑に目が留まった。
勝運と馬の神社で知られた藤森神社の石碑の側面に、「菖蒲の節句発祥の地」と刻まれていた。
菖蒲の節句の家々に飾られる武者人形には、藤森大神が宿るとされているらしい。菖蒲は尚武に通じ、尚武は勝負に通じることから、勝運を呼ぶ神として篤い信仰を集めていたのである。
更に、日本国語大辞典にあるように、「その年の豊作と、悪疫の流行を防ぐことなどを願って、新春に稲作に先だって行なう予祝の祭。」との説明も、春といえば陰暦の2月から4月を指すことも、同様であろう。
そこで祭月といえば、「その土地の主要な祭のある月」となるのだが、京都では、5月の葵祭なのか、7月の祇園祭なのかと迷う方がいる。
しかし、古来より、「祭月」といえば、「賀茂祭(葵祭)の行われる陰暦四月」を指し、平安中期、都の最大の祭りとなった賀茂祭の執り行われる陰暦四月の異名であったのだ。
その賀茂祭のメインは、現在のような路頭の儀で見る王朝絵巻の雅な行列ではなく、社頭の儀のあとの「走馬」や「山駈け」であり、15日までに行われる前儀、「足汰式(あしぞろえしき)」、「流鏑馬神事(やぶさめしんじ)」、「歩射神事(ぶしゃしんじ)」、「賀茂競馬(かもくらべうま)神事」などであった。
それらは山城国の勇壮な祭礼を受け継ぐもので、その荒っぽさを見物するために多くの人馬が集まった祭礼だったのである。
葵祭の行列の先頭は乗尻である。その乗尻が主役を務める葵祭の神事が賀茂競馬会(かもくらべうまえ)で、早馬の速さを競う天下の壮観を、菖蒲の節句の5月5日に見せていたのである。
その同日5日は、市内各所の氏神で祭礼が行われている中、馬の神様として知られる伏見の藤森神社でも駈馬(かけうま)神事の奉納が行われていたのである。
「賀茂競馬(かもくらべうま)神事」と同様に、京都市登録無形民俗文化財に指定されている誇り高きものだった。
社伝によると、古来、早良親王が、天応元年(781年)に陸奥の反乱に対し、征討将軍の勅を受け、藤森神社に詣でて戦勝を祈願し出陣された。その出陣の日が5月5日で、駈馬神事の始まりであるという。
室町時代には、衛門府出仕武官により、江戸時代には、伏見奉行所の、衛士警護の武士や、各藩の馬術指南役、町衆らが、「寿及左馬の一字書き」、「藤下がり」、「手綱潜り」、「横乗り」、「逆立ち(杉立ち)」、「矢払い」、「逆乗り(地藏)」等の他、数種の技を、競いあったものであると、続く。
実に1200年を超える、平安京遷都以前の古き時代からの歴史があるではないか。
駈馬奉納の演目は、どうやら曲技のようである。
賀茂競馬会は荒馬の速さを競うのに対して、駈馬神事は早馬ではなく、江戸時代中期に大陸系の曲芸的な馬術の影響を受けたものとなり、戦でのアクロバット的な妙技を披露するスリリングなものであった。
南門から拝殿に向かう参道は馬場に姿を変えていた。
左に第一紫陽花苑、右に宝物殿を見て、南門より拝殿に向かって馬は駈けるのである。
馬場を囲うように柵が張り巡らされ、陣取った大勢の観客で人垣ができていた。
境内の神寂びた木立は、厳粛な空気に一層の緊張感を齎している。
いよいよ駈馬が始まる。
手元に持ってきた演目のメモを開け、読み返す。
一、手綱潜り/敵矢の降りしきる中、駈ける技
二、逆乗り(地藏)/敵の動静を見ながら、駈ける技
三、矢払い/敵矢を打払いながら、駈ける技
四、横乗り/敵に姿を隠して、駈ける技
五、逆立ち(杉立ち)/敵を嘲りながら、駈ける技
六、藤下がり/敵矢の当たったと見せて、駈ける技
七、一字書き/前線より後方へ情報を送りながら、駈ける技
騎乗した乗り子が拝殿から南門へとゆっくりと向かう。
馬は三頭だった。全演目見れるのだろうか。
場内にアナウンスが流れた。いよいよである。
白旗が揚げられた。
土埃が舞う。鳥居の下から駈けだしたようである。
高らかな蹄の音が迫ってきた。
どんどん近づいてくる。目の前を走りすぎる。
鬣(たてがみ)は揺れ、尾が水平に流れている。
紫の房は踊り、駈け抜けた。
疾走する馬上の出来事が嘘のようである。
緑の房が揺れている。乗り子が手綱を手から離した。
両手を高々と挙げている。馬はスピートを上げ駈ける。
手から蜘蛛の巣のように白いなにものかが広がった。
吹き散りのように棚引いている。
敵矢を打払いながら駈ける、矢払い(蜘払い)である。
赤い房をつけた白馬が疾走してきた。乗り子は馬の右片腹側に全身を移している。
馬の背と同じ高さに身を縮め、手綱など持たず、片手を馬の背に掛けているだけである。
落ちはしないかと思う。敵に姿を隠していたのだ。
進行方向とは逆さに乗ったり、頭を下げ両足を上げ馬上で倒立をしたり、敵矢の当たったと見せて片足掛けでぶら下がったり、馬上で板に筆書きしたりと、その迫力に息を呑む妙技が続く。
まるでサーカスを見るようなのである。
ライフジャケットを着けるわけでもない、命綱が着けられているわけでもない。
この日の乗り子はスーパーヒーローなのである。
そのあと、駈馬神事の終わった馬場に、行列が入ってきた。
藤森神社鼓笛隊の幟を先頭に、刀を肩掛けした袴姿の横笛を吹く子供達に、太鼓を叩く子供達の行進である。
そして続くのは、菖蒲で飾られた台車に、御幣のつけられた大榊が載せられ、神役の幟が続く。
氏子地区を巡行していた鼓笛隊と武者行列、七福神が戻ってきたのだ。
朝渡(あさわたり/御祭神早良親王東征の行装)、皇馬(こんま/清和天皇勅諚深草祭の行装)、払殿(ほって/神功皇后凱旋纛旗神祀の行装)など、武者の甲冑にも種々の種類があるようだ。興味は尽きない。
午後6時には、宮本下之郷、深草郷、東福寺郷の三基の神輿と女神輿が、巡幸から戻ってくるようだが、夕刻に先約があるので残念ながら迎えることができない。
今まで、紫陽花苑の時にしか出かけてこなかったので、神社の歴史に名残を惜しむべく、時間いっぱいまで、神域を散策することにした。
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菖蒲の節句の家々に飾られる武者人形には、藤森大神が宿るとされているらしい。菖蒲は尚武に通じ、尚武は勝負に通じることから、勝運を呼ぶ神として篤い信仰を集めていたのである。
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