京亀岡、元出雲で古代ロマンに遊ぶ

出雲大神宮と出雲大社 by 五所光一郎

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今夏、京都国立博物館で特別展覧会「大出雲展」が開催されている。

来年2013年に、古事記の編纂1300年と出雲大社の大遷宮を迎える機の特別展覧会で、貴重な品々が一堂に紹介され、神話を紐解き、日本のルーツに迷い込む夏となった。

時同じくして、知人が宮司をする丹波国一之宮出雲大神宮へ、東京から帰省した長男を案内することになる。なにやらパワースポット巡りがマイブームになっているようだ。
その出雲大神宮は、あの神話の国出雲へ、丹波の地から大国主命の分霊が遷されたもので、故に「元出雲」と称されていると聞かされて驚いた。

大出雲展」を見て、出雲国と大和朝廷との関係、更には古事記日本書紀に記されている物語の迷路に入り込み、推理も整理も出来ぬままの頃である。
出雲大社といえば、二拝四拍手一拝の作法で拝礼し、皇族でさえ本殿内部までは入れない古代出雲王権の仕来りを頑なに守り続けている国津神の社である。

その本家が丹波にあるというのだ。

古代史の不思議ワールドに足を踏み入れるように、京都縦貫道を走り、亀岡市千歳町千歳出雲無番地へと向かった。

丹波国風土記」によれば、「奈良朝のはじめ元明天皇(661〜721年)の和銅年中(708〜715年)、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり。」と記されている。
一方、いくつかの伝承があるものの、日本書紀(720年完成)には、斉明天皇5年(659年)に出雲国造に命じて大社を造営と記されている。

因みに、和銅元年(708年)の和同開珎、同3年の平城京遷都、同5年の古事記撰上、同6年の各地の風土記編纂など、元明天皇在位中に歴史的大事業が次々に成し遂げられた。
しかし、記紀は征服王朝の正統性を強調し、治世に活かすための政争勝者の記録であることからすると、史実としては行間に推理を働かさなければならない。

拝殿前の大きな駒札を見て、またもや驚きである。

凡夫の小生は狐につままれた様なもので、「皇祖壱萬年以前大八洲国国祖神社(おおやしまのくにくにのみおやじんじゃ)」とあり、本殿背後にある御蔭山が御神体で国常立尊(くにのとこたちのかみ)の神蹟であると、麓に社か設けられたとき大国主命と出雲三穂津姫命とが祀られたと説明を受けた。

出雲大神宮の由緒によれば、
「殊に三穂津姫命は天祖高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の娘神で、大国主命国譲りの砌(みぎり)、天祖の命により后神となられました。
天地結びの神、即ち縁結びの由緒は叉ここに発するもので、俗称元出雲の所以であります。

日本建国は国譲りの神事に拠るところですが、丹波国は恰(あたか)も出雲大和両勢力の接点にあり、此処に国譲りの所由(しょゆう)に依り祀られたのが当宮です。
・・・・・崇神天皇(紀元前97年〜紀元前29年在位)再興の後、社伝によれば元明天皇和銅二(709)年に初めて社殿を造営。
現社殿は鎌倉末期の建立にして(旧国宝・現重要文化財)それ以前は御神体山の御蔭山を奉斎し、古来より今尚禁足の地であります。
又御蔭山は元々国常立尊のお鎮まりになられる聖地と伝えられています。」とある。

諸説あるも、神話は難解なのであえて注釈をすると、国常立尊は日本の国土の出現のとき最初に現れた神話の根源となる神で(日本書紀)、天地開闢(かいびゃく)の時に現れた造化三神の一神高皇産霊神など別天津神(ことあまつかみ)五神の一神天之常立神(あめのとこたちのかみ)と対を為し、神世七代(かみよななよ)の初代である(古事記)。
吉田神道では、国常立神を造化三神の第一神である天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ/宇宙に一番最初に出現し、高天原の主宰神となった神)と同一神とし、大元尊神(宇宙の根源の神)に位置付けられている。


こう説明し始めると、余計に頭を傾げさせるやも知れない、

よく耳にされる伊邪那岐(いざなぎ)命・伊邪那美(いざなみ)命は神世七代目の神様で、国産み・神産みにおいて日本国土を形づくる多数の子を儲け、最後に天照大神(あまてらす)・月夜見尊(月読命・つくよみ)・素戔嗚尊(建速須佐之男命・すさのを)の三貴子が生まれ、高天原・夜・海原の統治を委任したとの神話ならご存じだろう。

つまり、国常立尊は神様と国土を作ったご先祖であり、気が遠くなるほど更に古い、いや日本の一番最初の神様となる。

そして、別天津神・神世七代・三貴神までを天津神と称し、高天原から天降った素戔嗚尊や、その子孫である大国主などは国津神と称され、大和王権によって平定された地域の人々が信仰していた神々は国津神と呼ばれている。

国津神は縄文時代以来の自然物信仰の形態を持ち、磐座に神が降臨し、清らかな湧き水が穢れを除くと共に再生の活力を与え、万物に神が宿るという素朴な信仰である。
まさに、出雲大神宮の千歳地域の地形もそうであれば、その神域にある御蔭山の懐に巨岩があり磐座と崇められ、真名井のいずみや真名井の井戸、龍神の神御蔭の滝があり、古来より丹波の人々の「聖なる地」だったことを覗わせていた。


おそらくこうした国津神となる自然物信仰は、各地各様の歴史があったであろう。
古代における地方部族の団結とその象徴が国津神であったに違いなく、その部族長は誰よりその信仰に篤かった筈である。
その最たる先祖が丹波国においての大国主命であったのであろう。


また、その代表格ともいえる文化を形成していたのが、出雲大社を核とする出雲国であったことは、大出雲展に見た出土品などからも明らかである。

そこへ、天津神を信仰する大和王権の覇権の手が広がってゆき、政略結婚の第1号を象徴するような天津神の后を国津神に迎えさせたのが、出雲大神宮の祭神として合祀された三穂津姫命なのである。

大和王権は、各国にあった国津神の信仰を、天津神の信仰へと改宗をさせずに、万有和合の戦略を用い成功したと、国譲りの神話は教えているように思えてならなかった。

そしてもう一つの驚きは、境内に崇神天皇を見つけたことである。
地方部族長たる国津神大国主命は、国常立尊、三穂津姫命という天津神に留まらず、その天孫の第10代崇神天皇に囲まれて祀られているのである。
出雲大社には見られない現象である。

丹波国や山陰出雲連合の精神的支柱となる大国主命が、皇祖、天孫、引いては大和朝廷に反逆する種を、至近でもある丹波国で封じるためだったのだろうか。


銅剣・銅矛・銅鐸、あるいは巨大神殿の柱「宇豆柱」、国内最古級の相撲力士を含む人物埴輪などを大出雲展で見た。

もし、丹波国の発掘調査が行われるなら、如何様なものが発掘されるだろう。

考古学上の新たな発掘で、世の歴史はいつも塗り替えられている。
古代はミステリアスだ。

出雲大神宮の参詣で、「崇神天皇」の祠の真下にいる蛇に出あったことや、「御蔭の滝」の冷風に心身が洗われたことなどを書く紙幅がなくなってしまった。


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関連歳時/文化
元出雲
大出雲展
古事記
日本書紀
丹波国風土記
吉田神道
天之御中主神
御蔭の滝
崇神天皇社

関連施設/場所
出雲大神宮
京都国立博物館
出雲大社
丹波国

関連人物/組織
崇神天皇
別天津神
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伊邪那美
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素戔嗚尊
三穂津姫命

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