7月1日の京都といえば、「始まりましたな」「いよいよどすな」と、一ヶ月に亘る祇園祭の幕開けを誰もが口にする。
この日は祇園祭の神事始めの儀式となる日で、"吉符入り"と呼び習わされている。
祗園祭吉符入りで思い浮かべられるのは、長刀鉾町保存会の会所二階にある祭壇前で行われる、祭事の無事祈願と披露される稚児舞であろう。近年になって他の山鉾町の会所で行われる吉符入りも報じられるようになって、稚児舞だけが祇園祭吉符入りじゃないことに気づかれた方も多い。しかしながら、吉符入りが山鉾町だけだと勘違いされている。
何故なら・・・マスコミ報道では、「祇園祭が1日、幕を開け、京都市中心部の33の山鉾町のうち15町で神事始めの儀式「吉符入り」が行われた。(地元K新聞2014.7.2)」と報じられるからである。確かに事実報道だが舌たらずで、残る18の山鉾町も5日までに順次整然と行われているばかりか、祇園祭の神髄となる神輿渡御を仕切る三若神輿会も会所で「吉符入り」を行っている。
では、町会所ではなく八坂神社本殿で執り行われる「吉符入り」をご存知だろうか、それが「宮本組吉符入り」なのである。
いったい宮本組とは何なのかと聞いてみた。
書いて字の如く、「お宮の本にあるから宮本組」と呼び習わされ、祗園社創建の昔から代々この地に住い、祗園さんに熱心にご奉仕してきた町衆の講にルーツがあるという。
祇園祭の全執行の調整と統括を行う清々講社が組織(明治5年)されてからは、その筆頭講社としての誇りと責任の下、祭礼の神事、行事の裏方を任じている。
因みに、清々講社は八坂神社の氏子組織。旧25学区からなる町衆組織で構成され、宮本組は八坂神社のお膝元である弥榮学区の住民、店主や地主で構成されている。
そして、清々講社の手で八坂神社の祭礼「祇園祭」の本祭と関連行事とが執行され、山鉾連合会の手でつけ祭りの「山鉾巡行」が執行され、町の皆のお祭りとなって、お迎え提灯や花笠巡行、数多くの奉納を各種団体が力を合わせて行い、現在まで守り続けられているのである。
平成26年夏、合同巡行されていた山鉾巡行が約半世紀ぶりに本来の祭礼の形に戻され、後祭での巡行が復活、籤取らずの殿を務める大船鉾も150年ぶりに再建復活する。
交通事情を大義に、観光誘致に行政主導された合同山鉾巡行だったと思うが、これで祭礼の意味が取り戻された訳である。経済的波及効果を否定するつもりはないが、今回の後祭巡行の復活と観光事業とを主客転倒させてはならないことを記しておきたい。
山鉾巡行でいえば、半世紀にも及ぶ間違いが吉田幸次郎理事長の決断で正された年である。
八坂神社の祭礼は、半世紀前も、その昔も今も、前祭(神幸祭)と後祭(還幸祭)の伝統を継承し続けている。
後祭巡行復活の節目となる今年こそは、前祭を観て「祇園祭は終わりましたなぁ」などとは言わせない。
さて、本祭は今も昔も変わらずに17日神幸祭と、24日還幸祭を英々と執り行ってきた。スサノオノミコト(牛頭天王)が「おいで」になるときも、「おかえり」になるときも、御神体がお遷りになった御神輿とともに巡幸しているのは、御神宝である。
神輿渡御に際し、御神体と常に一緒に巡幸するは、スサノオノミコトが身に着ける御神宝および御装束である。これは平安時代以前の古式の祭礼の様式を今に残しているものだ。
その神宝の奉持を許されていたのが「宮本組」なのである。
八坂神社お膝元の弥栄学区にある宮本組は、誇りを持ってこれを担い、アルバイト学生に委ねることなく講員の手で今も受け継がれている。
八坂神社本殿で吉符入りを終えた宮本組は、同日18時、境内清々館に集い「籤取」を行っていた。
正面床の間の上座中央には、空色の法被を纏った男が真正面を見据え腕を組み座していた。次々に講員が席入りし、車座に輿を下ろしてゆく。
中央に座す男が宮本組講社組長今西知夫である。今西の家業は祗園で御菓子司を営む「鍵善良房」の旦那さんだ。
金の酒器が載せられた朱塗りの金台三宝二台と、同じく朱塗りのへぎ台二台が待ち構えているように見えた。
目を凝らしてへぎ台を見ると、どうやら籤らしき折り紙が載せられている。
神宝の一つづつは講員二人一組となって受け持つ。この組み合わせは日頃の講員の様子を見て、宮本組長以下幹部が事前に決めていた。
神宝奉持列の先頭は「勅板」で、天延二年(974年)、神輿が鴨川を渡り平安京を渡御するように命じた円融天皇の勅令が書かれていると伝わるものである。続く御神宝は、矛、楯、弓、矢、剣、琴など武具や楽器である。
これらのどれを奉持するかを、座敷中央に置かれたへぎ台の上の籤を引くと決まる。
重いもの、軽いもの、持ちづらいもの、種々あるが文句は言えまい。
籤が毎年決めるのだ。数人に聞いてみると、やはり勅板に人気が集まっているようである。
和やかに歓談する清々館の部屋の空気が静まった。
八坂神社森壽雄宮司の挨拶に耳を向ける講員との信頼関係が感じ取れる。
29日の直会を楽しみにとの締めの言葉に、宮司と講員ともども笑みが零れていたことで、それがわかる。
講員の名が読みあげられた。手を上げ席を立ち朱塗りのへぎ台の前へと進む。
籤に記された御神宝の名が、声高に響く。次々と籤が引かれてゆく。
本殿での拍手の音と、籤にざわめく声に、祇園祭が始まったのだと強く感じる日であった。
そして翌日、市議会室で、山鉾巡行の籤取り式が行われていた。
この日は祇園祭の神事始めの儀式となる日で、"吉符入り"と呼び習わされている。
祗園祭吉符入りで思い浮かべられるのは、長刀鉾町保存会の会所二階にある祭壇前で行われる、祭事の無事祈願と披露される稚児舞であろう。近年になって他の山鉾町の会所で行われる吉符入りも報じられるようになって、稚児舞だけが祇園祭吉符入りじゃないことに気づかれた方も多い。しかしながら、吉符入りが山鉾町だけだと勘違いされている。
何故なら・・・マスコミ報道では、「祇園祭が1日、幕を開け、京都市中心部の33の山鉾町のうち15町で神事始めの儀式「吉符入り」が行われた。(地元K新聞2014.7.2)」と報じられるからである。確かに事実報道だが舌たらずで、残る18の山鉾町も5日までに順次整然と行われているばかりか、祇園祭の神髄となる神輿渡御を仕切る三若神輿会も会所で「吉符入り」を行っている。
では、町会所ではなく八坂神社本殿で執り行われる「吉符入り」をご存知だろうか、それが「宮本組吉符入り」なのである。
いったい宮本組とは何なのかと聞いてみた。
書いて字の如く、「お宮の本にあるから宮本組」と呼び習わされ、祗園社創建の昔から代々この地に住い、祗園さんに熱心にご奉仕してきた町衆の講にルーツがあるという。
祇園祭の全執行の調整と統括を行う清々講社が組織(明治5年)されてからは、その筆頭講社としての誇りと責任の下、祭礼の神事、行事の裏方を任じている。
因みに、清々講社は八坂神社の氏子組織。旧25学区からなる町衆組織で構成され、宮本組は八坂神社のお膝元である弥榮学区の住民、店主や地主で構成されている。
そして、清々講社の手で八坂神社の祭礼「祇園祭」の本祭と関連行事とが執行され、山鉾連合会の手でつけ祭りの「山鉾巡行」が執行され、町の皆のお祭りとなって、お迎え提灯や花笠巡行、数多くの奉納を各種団体が力を合わせて行い、現在まで守り続けられているのである。
平成26年夏、合同巡行されていた山鉾巡行が約半世紀ぶりに本来の祭礼の形に戻され、後祭での巡行が復活、籤取らずの殿を務める大船鉾も150年ぶりに再建復活する。
交通事情を大義に、観光誘致に行政主導された合同山鉾巡行だったと思うが、これで祭礼の意味が取り戻された訳である。経済的波及効果を否定するつもりはないが、今回の後祭巡行の復活と観光事業とを主客転倒させてはならないことを記しておきたい。
山鉾巡行でいえば、半世紀にも及ぶ間違いが吉田幸次郎理事長の決断で正された年である。
八坂神社の祭礼は、半世紀前も、その昔も今も、前祭(神幸祭)と後祭(還幸祭)の伝統を継承し続けている。
後祭巡行復活の節目となる今年こそは、前祭を観て「祇園祭は終わりましたなぁ」などとは言わせない。
さて、本祭は今も昔も変わらずに17日神幸祭と、24日還幸祭を英々と執り行ってきた。スサノオノミコト(牛頭天王)が「おいで」になるときも、「おかえり」になるときも、御神体がお遷りになった御神輿とともに巡幸しているのは、御神宝である。
神輿渡御に際し、御神体と常に一緒に巡幸するは、スサノオノミコトが身に着ける御神宝および御装束である。これは平安時代以前の古式の祭礼の様式を今に残しているものだ。
その神宝の奉持を許されていたのが「宮本組」なのである。
八坂神社お膝元の弥栄学区にある宮本組は、誇りを持ってこれを担い、アルバイト学生に委ねることなく講員の手で今も受け継がれている。
八坂神社本殿で吉符入りを終えた宮本組は、同日18時、境内清々館に集い「籤取」を行っていた。
正面床の間の上座中央には、空色の法被を纏った男が真正面を見据え腕を組み座していた。次々に講員が席入りし、車座に輿を下ろしてゆく。
中央に座す男が宮本組講社組長今西知夫である。今西の家業は祗園で御菓子司を営む「鍵善良房」の旦那さんだ。
金の酒器が載せられた朱塗りの金台三宝二台と、同じく朱塗りのへぎ台二台が待ち構えているように見えた。
目を凝らしてへぎ台を見ると、どうやら籤らしき折り紙が載せられている。
神宝の一つづつは講員二人一組となって受け持つ。この組み合わせは日頃の講員の様子を見て、宮本組長以下幹部が事前に決めていた。
神宝奉持列の先頭は「勅板」で、天延二年(974年)、神輿が鴨川を渡り平安京を渡御するように命じた円融天皇の勅令が書かれていると伝わるものである。続く御神宝は、矛、楯、弓、矢、剣、琴など武具や楽器である。
これらのどれを奉持するかを、座敷中央に置かれたへぎ台の上の籤を引くと決まる。
重いもの、軽いもの、持ちづらいもの、種々あるが文句は言えまい。
籤が毎年決めるのだ。数人に聞いてみると、やはり勅板に人気が集まっているようである。
和やかに歓談する清々館の部屋の空気が静まった。
八坂神社森壽雄宮司の挨拶に耳を向ける講員との信頼関係が感じ取れる。
29日の直会を楽しみにとの締めの言葉に、宮司と講員ともども笑みが零れていたことで、それがわかる。
講員の名が読みあげられた。手を上げ席を立ち朱塗りのへぎ台の前へと進む。
籤に記された御神宝の名が、声高に響く。次々と籤が引かれてゆく。
本殿での拍手の音と、籤にざわめく声に、祇園祭が始まったのだと強く感じる日であった。
そして翌日、市議会室で、山鉾巡行の籤取り式が行われていた。
5517-140703-7/1
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清々講社
宮本組
今西知夫
鍵善良房
円融天皇
森壽雄宮司
三若神輿会
吉田幸次郎
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