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五節句のひとつである七夕(しちせき)を「たなばた」と呼び習わしているのは、「棚織(たなばた)」の音が七夕(たなばた)転じたもののようだ。
日本古来の棚織津女(たなばたつめ)の伝説と、奈良時代に中国より伝来した節供「乞功奠(きっこうてん/芸能の上達を祈る行事)」が習合して、日本独自の七夕まつりに発展し民間信仰として定着した。
神の依り代となる笹竹を立て、五色の短冊を結び付け、願い事を叶えて貰えるように祈る形は、それらの名残である。
笹の葉サラサラ 軒端に揺れる お星さまキラキラ 金銀砂子
五色の短冊 わたしが書いた お星さまキラキラ 空から見てる
これ以上口ずさめないが、幼い頃の「七夕さま」の歌を思い出す。
鼻歌に誘われ久々に七夕飾りが見たくなり、京都市内の神社で執り行われている七夕祭に出かけることにした。
元来棚織祭と書かれていただけあって、信仰が篤かったのだろうか、機織の町であった西陣にある神社が執り行っていた。
まずは、北野天満宮に向かった。
天神さんの七夕の神事は「御手洗祭」と称され、氏子町の人たちは「天神さんの七夕」と呼んでいる。
今出川の鳥居をくぐり抜け参道を進むと、右前方の中ノ森広場に七夕飾りの青竹で囲われた祭壇が設えられていた。
折紙や、五色の短冊で色派手やかに飾りつけられた青竹が風に揺らいでいる。
機織りの祖神である天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ)を祀る祭であることが、祭壇の様子から分かる。北野の天神さんは七夕の節句に無病息災と手芸文芸上達を祈念するのである。
本殿に向かう途中、「かささぎ」の歌が、楼門にかけられていた。
「彦星の ゆきあひを待つ かささぎの 渡せる橋を 我にかさなむ」
祭神菅原道真公が詠まれた「かささぎ」は、新古今和歌集巻一八集にある歌である。
本殿では、神前に菅公の御遺愛と伝わる「松風の硯」をはじめ、角盥(つのだらい)・水差し・短冊の代わりに用いられたという梶の葉・ナス・キュウリ・マクワ等の夏野菜・素麺・御手洗団子が供えられ、祭典が執り行われるところであった。
祝詞奏上が終えたところで、三光門をあとにした。
午後4時前頃、「精大明神祭」にやってくると蹴鞠の奉納が行われていた。
精大明神は、和歌・蹴鞠上達の守護神、七夕の神と伝承されており、白峯神宮境内の地主社である。
神楽殿の東にある地主社神殿にお参りした。
拝所に立つとその供物に目を奪われ、拝礼を静止させられてしまった。
赤・黄・白・青・黒の五色の糸が巻かれた糸巻きがある。紫や緑の糸の巻かれた糸巻きもあり、傍に手機のようなものも置かれている。暫く他の供物が目に入らなかった。まるで釘付けにされた状態である。
というのは、神の降臨を待って棚織津女が神に送る衣を織る伝説と、見たことのない乞巧奠の宴の情景が過ぎったからである。
琴や琵琶などの管弦楽器に五色の布や糸や針が並べられ、花瓶には秋の七草が生けられ、角盥(つのだらい)には梶の葉を浮かべた水が張られ、星を映して眺めている様子がスローモーションで浮かんできたのである。
隣の人の拍手(かしわで)を打つ音で我に還り、慌てて拝礼、参拝を済ませた。
振り返ると、そこに織姫(織女)と彦星(牽牛)がいるではないか。
我が目を疑ったが夢ではなかった。
精大明神祭の七夕小町踊り奉告祭のあと、前述の織姫と彦星は、五色の錦糸を巻いた糸巻きを持って、神楽殿にて織姫舞を披露してくれた。どうやら、氏子の中学生のようである。
神職に案内され奉告祭の席に着座するところであったのだ。
京都の七夕は地味なものとばかり決め込んでいたが、祇園祭の間に、西陣では粛々と七夕祭を執り行っていたのである。
境内に大笹竹の七夕飾りを設え、織姫と彦星の「織姫舞」や「七夕小町踊り」が奉納された。
江戸時代徳川家光の上洛のとき(1634年)に始まった小町踊りなのだが、昭和37年に七夕小町踊りとして、白峯神宮精大明神祭で復活されたもの(振付/茂山千五郎 考証/吉川観方)と聞いている。
30万7000人の供奉者(ぐぶしゃ)を引き連れて上洛した家光を、町娘たちの歓迎の踊りで迎えようと、七夕の夜に京中を踊りまわしたのが「小町踊り」である。
その後も盛んに京の町で踊られ、元禄期のそれは宮崎友禅斎の特色ある流行の友禅染の着物を着て、片袖を脱ぎおろし、太鼓を打ち鳴らし踊るものであったようだ。
そのルーツを持つ「七夕小町踊り」は、元禄時代の頃、宮中の行事「乞功奠」の折、貴族が詠んだ和歌を御所へ供え物として届ける際、文使いのお供をした娘たちが道中で歌い練り舞った踊りが起源だと神職からうかがった。
西陣の乙女たちは、きっと技能・芸能の上達を祈って練り踊っていたに違いない。
その故事に因んで、白峯神宮では、華やかに着飾った氏子の幼稚園、小学生により大笹竹の七夕飾りを囲んで毎年奉納されている。
七夕小町踊りの乙女達のいでたちはというと、紫の鉢巻に桔梗の銀カンザシ、緋の襦袢を片袖脱ぎに見せ金襴のタスキと帯、そして赤いしごきを為した振袖姿である。
左手に太鼓、右手にバチを打ちかざし、盆踊りのように笹飾りの周りを何周もシナをつくり踊っている。あどけない表情であでやかに踊る、その風流な姿にゆるりとした時間が流れた。
西陣紫野の今宮神社の末社に織姫神社があるという。
祭神栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)を祀り、8月7日に七夕祭が行われると聞いた。
表通りでは機織の音が聞こえなくなった西陣の町だが、路地奥からの音を聞くことがある。今も棚織津女の伝説が生きているようである。
日本古来の棚織津女(たなばたつめ)の伝説と、奈良時代に中国より伝来した節供「乞功奠(きっこうてん/芸能の上達を祈る行事)」が習合して、日本独自の七夕まつりに発展し民間信仰として定着した。
神の依り代となる笹竹を立て、五色の短冊を結び付け、願い事を叶えて貰えるように祈る形は、それらの名残である。
笹の葉サラサラ 軒端に揺れる お星さまキラキラ 金銀砂子
五色の短冊 わたしが書いた お星さまキラキラ 空から見てる
これ以上口ずさめないが、幼い頃の「七夕さま」の歌を思い出す。
鼻歌に誘われ久々に七夕飾りが見たくなり、京都市内の神社で執り行われている七夕祭に出かけることにした。
元来棚織祭と書かれていただけあって、信仰が篤かったのだろうか、機織の町であった西陣にある神社が執り行っていた。
まずは、北野天満宮に向かった。
天神さんの七夕の神事は「御手洗祭」と称され、氏子町の人たちは「天神さんの七夕」と呼んでいる。
今出川の鳥居をくぐり抜け参道を進むと、右前方の中ノ森広場に七夕飾りの青竹で囲われた祭壇が設えられていた。
折紙や、五色の短冊で色派手やかに飾りつけられた青竹が風に揺らいでいる。
機織りの祖神である天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ)を祀る祭であることが、祭壇の様子から分かる。北野の天神さんは七夕の節句に無病息災と手芸文芸上達を祈念するのである。
本殿に向かう途中、「かささぎ」の歌が、楼門にかけられていた。
「彦星の ゆきあひを待つ かささぎの 渡せる橋を 我にかさなむ」
祭神菅原道真公が詠まれた「かささぎ」は、新古今和歌集巻一八集にある歌である。
本殿では、神前に菅公の御遺愛と伝わる「松風の硯」をはじめ、角盥(つのだらい)・水差し・短冊の代わりに用いられたという梶の葉・ナス・キュウリ・マクワ等の夏野菜・素麺・御手洗団子が供えられ、祭典が執り行われるところであった。
祝詞奏上が終えたところで、三光門をあとにした。
午後4時前頃、「精大明神祭」にやってくると蹴鞠の奉納が行われていた。
精大明神は、和歌・蹴鞠上達の守護神、七夕の神と伝承されており、白峯神宮境内の地主社である。
神楽殿の東にある地主社神殿にお参りした。
拝所に立つとその供物に目を奪われ、拝礼を静止させられてしまった。
赤・黄・白・青・黒の五色の糸が巻かれた糸巻きがある。紫や緑の糸の巻かれた糸巻きもあり、傍に手機のようなものも置かれている。暫く他の供物が目に入らなかった。まるで釘付けにされた状態である。
というのは、神の降臨を待って棚織津女が神に送る衣を織る伝説と、見たことのない乞巧奠の宴の情景が過ぎったからである。
琴や琵琶などの管弦楽器に五色の布や糸や針が並べられ、花瓶には秋の七草が生けられ、角盥(つのだらい)には梶の葉を浮かべた水が張られ、星を映して眺めている様子がスローモーションで浮かんできたのである。
隣の人の拍手(かしわで)を打つ音で我に還り、慌てて拝礼、参拝を済ませた。
振り返ると、そこに織姫(織女)と彦星(牽牛)がいるではないか。
我が目を疑ったが夢ではなかった。
精大明神祭の七夕小町踊り奉告祭のあと、前述の織姫と彦星は、五色の錦糸を巻いた糸巻きを持って、神楽殿にて織姫舞を披露してくれた。どうやら、氏子の中学生のようである。
神職に案内され奉告祭の席に着座するところであったのだ。
京都の七夕は地味なものとばかり決め込んでいたが、祇園祭の間に、西陣では粛々と七夕祭を執り行っていたのである。
境内に大笹竹の七夕飾りを設え、織姫と彦星の「織姫舞」や「七夕小町踊り」が奉納された。
江戸時代徳川家光の上洛のとき(1634年)に始まった小町踊りなのだが、昭和37年に七夕小町踊りとして、白峯神宮精大明神祭で復活されたもの(振付/茂山千五郎 考証/吉川観方)と聞いている。
30万7000人の供奉者(ぐぶしゃ)を引き連れて上洛した家光を、町娘たちの歓迎の踊りで迎えようと、七夕の夜に京中を踊りまわしたのが「小町踊り」である。
その後も盛んに京の町で踊られ、元禄期のそれは宮崎友禅斎の特色ある流行の友禅染の着物を着て、片袖を脱ぎおろし、太鼓を打ち鳴らし踊るものであったようだ。
そのルーツを持つ「七夕小町踊り」は、元禄時代の頃、宮中の行事「乞功奠」の折、貴族が詠んだ和歌を御所へ供え物として届ける際、文使いのお供をした娘たちが道中で歌い練り舞った踊りが起源だと神職からうかがった。
西陣の乙女たちは、きっと技能・芸能の上達を祈って練り踊っていたに違いない。
その故事に因んで、白峯神宮では、華やかに着飾った氏子の幼稚園、小学生により大笹竹の七夕飾りを囲んで毎年奉納されている。
七夕小町踊りの乙女達のいでたちはというと、紫の鉢巻に桔梗の銀カンザシ、緋の襦袢を片袖脱ぎに見せ金襴のタスキと帯、そして赤いしごきを為した振袖姿である。
左手に太鼓、右手にバチを打ちかざし、盆踊りのように笹飾りの周りを何周もシナをつくり踊っている。あどけない表情であでやかに踊る、その風流な姿にゆるりとした時間が流れた。
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5241-090707-7/7
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