正月に「あけましておめでとう」と挨拶するのは、「年神を迎えることができておめでたい」という意味からである。
年神は、その年の五穀豊穣と家内の安全を齎してくれる神であり、人に一年分の新しい魂を与えてくれると信じられてきた。
その年神を迎えるために、元旦には種々の準備がされた。その名残として今も飾れ、供えられているものがある。
年神を家に迎えるための目印とされているのが門松である。松は常緑樹で極寒にも緑を失わず、「神待つ木」として、神聖な木とされた。
迎えられた年神は年神棚に祀られる。年神は、神棚に張られた新しい注連縄で囲まれた清浄な神域を年神棚として留まる。そのご神体は鏡餅とされ古来より営々と民間信仰されている。
そして、古代の神鏡のように丸められた丸く平らな鏡餅には稲の霊が宿り、鏡開きした餅を食べる者は新しい生命を体内に取り込めるとされた。
雑煮はご神体とその神に捧げたものを頂くことによって、神の霊を頂き、神と一体化し、新しい魂をもらうと考えたのである。
年神から与えられる新しい魂が「お年魂(おとしだま)」と呼ばれ、現在の「お年玉」に受け継がれている。つまり、お年玉は元来お金ではなく、新しい年神の魂(鏡餅)を頂くことに由来していた。
年神をお迎えしたなら、新年を祝う供え物を捧げるわけだが、それがお節である。
鏡餅を「お年魂」として頂き雑煮とし、供え物をお節料理とし、家々では年神とともに新年を祝ったのが日本のお正月なのである。
お節料理に欠かせないのは黒豆と数の子とたたきゴボウの「三つ肴」であるが、京都の三つ肴のたたきゴボウが、一般的にはごまめに変って三つの祝い肴と呼ばれている。
三つ肴のそれぞれには謂れがある。
幼少の頃、お節のお重を前に父がその謂れを解説するのが我が家の恒例であった。毎年毎年同じ薀蓄を聞かされるうちに小生もその薀蓄を宙でいえるようになっていた。そして、父の解説が始まりだすと、それを遮るように自慢げに薀蓄する少年が誕生するのである。
父の薀蓄から、どんなに贅沢な料理を揃えても、三つ肴と雑煮の餅がないと正月料理の祝い膳の体裁が整わないと教えられたことを、未だに毎年思い出す。
三つ肴の黒豆は、まめに働き(勤勉)、まめに暮らせること(健康)を願っていただき、道教にいう魔除けの黒色で護られていると。
数の子は、鰊(かど・ニシン)の卵のことで、その数の多さにあやかり子孫繁栄の縁起を祝って頂いていること。
ゴボウは、形や色が豊作のときに飛んでくると伝えられている黒い瑞鳥(ずいちょう)を連想させる事から豊作を願って食べられていること。瑞鳥とはめでたいことの起こる前兆とされる鳥で鶴や鳳凰などのことである。
ごまめ(干した片口鰯)は一年の豊作を祈るためのイワシで「田作り」とも呼ばれ、田んぼの肥料に材料としてごまめを用いたところ、米が五万俵もとれたところから「五万米」(ごまめ)と当てられた祝い肴であること。
などなど、日本人の祈りの原景が残っている。そこには農耕民族が命の糧とする五穀豊穣を願い、国家や家族の子孫繁栄を祈り、勤勉実直に暮すことに幸福を求めている文化風土が見られる。
この日本国の固有の文化は、第二次大戦敗戦以降変調の兆しを見せ始めている。
昭和の間には語り継がれていたことも、平成の時代になると語られることさえなくなってきた。
加えて、日本の現代社会は、第一次産業を置き忘れたばかりか、国家としての産業の空洞化は加速し、一億総マネーゲーム化に興じさせられ、拙い少子化政策でお茶を濁し、国家存亡の危機に目が向けられていない現実が浮き彫りにされている。
しかし、新しい文化や信仰が生まれているような様子があるわけでもない。かといって、二千数百年に及ぶ固有の文化を顧み精神文化の機軸にしているわけでもない。日本沈没と憂うばかりである。
敢えて救われることといえば、初詣に人出では賑わい、コンビニにもお節料理は並べられ、家では鏡餅が飾られなくともお雑煮が食されていることである。
何故だかその理由は分からない。
本来は、年神を迎えている間は物音を立てたり騒がしくせず、台所で煮炊きをするのを慎み、ひたすらお迎えをし、そのお下がりである年魂を供に頂くお節料理が、正月の三日間女性が休養できるからのお節と解釈されているようでは精神文化が崩壊していると言わざるを得ないが、形だけでも残っているなら、翻訳者がしっかりすればよいわけである。
因みに、大切りの野菜を鍋に入れて煮しめていく「お煮しめ」は、家族が仲良くいっしょに結ばれるという意味であり、ごぼうは根菜なので一家の土台がしっかりとして栄えるように、蓮根は泥沼にあっても穢れのない綺麗な蓮の花を咲かせ、根に穴が開いているので、将来を見通せるように、里芋は親芋になると根元に小芋を沢山つけるので、子宝に恵まれるようにと願ってお重に詰められた。
更に、昆布巻は「よろこぶ」と同音になることからおめでたいと、きんとんは「金団」と書き、財宝という意味で今年も豊かな生活が送れるようにと、海老はゆでたり焼いたりすると背が丸くなることから、腰が曲がるまで長生きできるようにと、人生の願いごとが詰まっているのがお節料理である。
まだまだ続けると、お多福豆は、福を招き、家族が笑顔であるようにと、頭芋(八つ頭/親頭)は万事人の上に立ち頭になれるようにと、鰤(ぶり)は出世魚の代名詞で立身出世を願うことからと祝い膳には欠かせない。
駄洒落や語呂合わせで縁起を担ぎ、子孫繁栄の祈りを言葉にして、明るい笑いの中に新年を迎えてみてはいかがだろうか。
正月料理お節は、ただ美味けりゃ良いというものではないのである。
年神は、その年の五穀豊穣と家内の安全を齎してくれる神であり、人に一年分の新しい魂を与えてくれると信じられてきた。
その年神を迎えるために、元旦には種々の準備がされた。その名残として今も飾れ、供えられているものがある。
年神を家に迎えるための目印とされているのが門松である。松は常緑樹で極寒にも緑を失わず、「神待つ木」として、神聖な木とされた。
迎えられた年神は年神棚に祀られる。年神は、神棚に張られた新しい注連縄で囲まれた清浄な神域を年神棚として留まる。そのご神体は鏡餅とされ古来より営々と民間信仰されている。
そして、古代の神鏡のように丸められた丸く平らな鏡餅には稲の霊が宿り、鏡開きした餅を食べる者は新しい生命を体内に取り込めるとされた。
雑煮はご神体とその神に捧げたものを頂くことによって、神の霊を頂き、神と一体化し、新しい魂をもらうと考えたのである。
年神から与えられる新しい魂が「お年魂(おとしだま)」と呼ばれ、現在の「お年玉」に受け継がれている。つまり、お年玉は元来お金ではなく、新しい年神の魂(鏡餅)を頂くことに由来していた。
年神をお迎えしたなら、新年を祝う供え物を捧げるわけだが、それがお節である。
鏡餅を「お年魂」として頂き雑煮とし、供え物をお節料理とし、家々では年神とともに新年を祝ったのが日本のお正月なのである。
お節料理に欠かせないのは黒豆と数の子とたたきゴボウの「三つ肴」であるが、京都の三つ肴のたたきゴボウが、一般的にはごまめに変って三つの祝い肴と呼ばれている。
三つ肴のそれぞれには謂れがある。
幼少の頃、お節のお重を前に父がその謂れを解説するのが我が家の恒例であった。毎年毎年同じ薀蓄を聞かされるうちに小生もその薀蓄を宙でいえるようになっていた。そして、父の解説が始まりだすと、それを遮るように自慢げに薀蓄する少年が誕生するのである。
父の薀蓄から、どんなに贅沢な料理を揃えても、三つ肴と雑煮の餅がないと正月料理の祝い膳の体裁が整わないと教えられたことを、未だに毎年思い出す。
三つ肴の黒豆は、まめに働き(勤勉)、まめに暮らせること(健康)を願っていただき、道教にいう魔除けの黒色で護られていると。
数の子は、鰊(かど・ニシン)の卵のことで、その数の多さにあやかり子孫繁栄の縁起を祝って頂いていること。
ゴボウは、形や色が豊作のときに飛んでくると伝えられている黒い瑞鳥(ずいちょう)を連想させる事から豊作を願って食べられていること。瑞鳥とはめでたいことの起こる前兆とされる鳥で鶴や鳳凰などのことである。
ごまめ(干した片口鰯)は一年の豊作を祈るためのイワシで「田作り」とも呼ばれ、田んぼの肥料に材料としてごまめを用いたところ、米が五万俵もとれたところから「五万米」(ごまめ)と当てられた祝い肴であること。
などなど、日本人の祈りの原景が残っている。そこには農耕民族が命の糧とする五穀豊穣を願い、国家や家族の子孫繁栄を祈り、勤勉実直に暮すことに幸福を求めている文化風土が見られる。
この日本国の固有の文化は、第二次大戦敗戦以降変調の兆しを見せ始めている。
昭和の間には語り継がれていたことも、平成の時代になると語られることさえなくなってきた。
加えて、日本の現代社会は、第一次産業を置き忘れたばかりか、国家としての産業の空洞化は加速し、一億総マネーゲーム化に興じさせられ、拙い少子化政策でお茶を濁し、国家存亡の危機に目が向けられていない現実が浮き彫りにされている。
しかし、新しい文化や信仰が生まれているような様子があるわけでもない。かといって、二千数百年に及ぶ固有の文化を顧み精神文化の機軸にしているわけでもない。日本沈没と憂うばかりである。
敢えて救われることといえば、初詣に人出では賑わい、コンビニにもお節料理は並べられ、家では鏡餅が飾られなくともお雑煮が食されていることである。
何故だかその理由は分からない。
本来は、年神を迎えている間は物音を立てたり騒がしくせず、台所で煮炊きをするのを慎み、ひたすらお迎えをし、そのお下がりである年魂を供に頂くお節料理が、正月の三日間女性が休養できるからのお節と解釈されているようでは精神文化が崩壊していると言わざるを得ないが、形だけでも残っているなら、翻訳者がしっかりすればよいわけである。
因みに、大切りの野菜を鍋に入れて煮しめていく「お煮しめ」は、家族が仲良くいっしょに結ばれるという意味であり、ごぼうは根菜なので一家の土台がしっかりとして栄えるように、蓮根は泥沼にあっても穢れのない綺麗な蓮の花を咲かせ、根に穴が開いているので、将来を見通せるように、里芋は親芋になると根元に小芋を沢山つけるので、子宝に恵まれるようにと願ってお重に詰められた。
更に、昆布巻は「よろこぶ」と同音になることからおめでたいと、きんとんは「金団」と書き、財宝という意味で今年も豊かな生活が送れるようにと、海老はゆでたり焼いたりすると背が丸くなることから、腰が曲がるまで長生きできるようにと、人生の願いごとが詰まっているのがお節料理である。
まだまだ続けると、お多福豆は、福を招き、家族が笑顔であるようにと、頭芋(八つ頭/親頭)は万事人の上に立ち頭になれるようにと、鰤(ぶり)は出世魚の代名詞で立身出世を願うことからと祝い膳には欠かせない。
駄洒落や語呂合わせで縁起を担ぎ、子孫繁栄の祈りを言葉にして、明るい笑いの中に新年を迎えてみてはいかがだろうか。
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