「大文字」と打って検索すると、小生のパソコンは「おおもじ」と認識する馬鹿な奴である。
京都には「小文字」などない筈であるのに、大文字・小文字の検索結果サイトを並べている。思わず噴出してしまった。
「五山の送り火」と打ってやると通じるようである。
京都では「大文字」の単語を見て、「おおもじ」と読む人に出会ったことがない。
東山如意が嶽は「大文字山」と呼び、送り火のことは「大文字さん」で通じる。
祇園祭、清水寺と並び全国的にも知られる「大文字」も、電子頭脳には未だ理解できない文化なのである。日頃何かと手足になってくれているが、夏の夜空にくっきりと浮かびあがる風物詩を、その民間信仰を教えてやらねばならない程度だったのである。
昨夜、大文字さんが見えるところで、杯やコップを持って待ち、大の字を映しこみ飲み干す人がいた。なんという風流人かと思うが、そのような様子の人でもない。何故か・・・。
大文字さんの火が落ちると、翌朝早くから山に登る人もいる。今朝、瞬く間に火床の燃え殻が拾われ、無くなったようである。何故か・・・。
大文字の送り火は、お精霊さんの送り火なのだが、それらにどんなお呪いがあるのだろうか。
それらはいずれも無病息災のお呪いだという。そのお呪いで一年間無病息災に過ごせると言い習わされているのである。
火床の燃え殻は半紙に包まれお守りにされていた。
これで京の夏の祭典は終わり、やがて秋が訪れるといわれるが、町々にはまだまだ火の祭典が残っている。
大覚寺の宵弘法しかり、松上げしかり、京の夜空に火は焚かれている。
さて、左京区に残る送り火は「松上げ」と呼ばれ、その火の祭典を見ずして火祭りは語れないといえる。
火祭りの大方は松明やお火焚きで、その変容として、火渡り、火筒、山焼きなどがあるが、「松上げ」は火が放り投げられるもので、その美しさに圧倒されて、今もその光景が瞼に焼きついたままである。
大文字の後なら、8月23日の久多、24日の広河原、雲ヶ畑の三箇所で松上げが行われているから、是非お勧めしたい。
さて、今年は左京区花背八枡の「松上げ」に出かけた。
おそらく、京都人であっても、祭りの通にならないと、花背までは出かけないようである。まして、お盆の最中であり、大文字さんの前夜15日である。
花背の里まつりとして、地域住民の手で手厚く護られ俗化を免れているのかもしれない。
その間隙を縫って、お盆の渋滞道路を尻目に夕闇迫る鞍馬街道に車を走らせ花背に向かう。花背峠を越え、百井別れを経て別所集落に辿り着いた。市内のコンビニで買っておいた握り飯を口に運び、車中で腹ごしらえを済ませる。
気もそぞろである。夜9時に一斉点火である。
国道とは名ばかりの酷道477号線を走り、大布施(おおぶせ)の集落に入った。
ここから八枡にかけての地域は茅葺民家が点在している。日本で唯一の消防駐在所や地域でただ一つのスーパー「A-COOP」、ガソリンスタンド(モービル)がある。
それだけで安堵が得られる道中をやってきたのである。
やはり府道とは名ばかりの腐道美山広河原線を北行すると、山村都市交流の森の先の路肩に車が駐車している。これが目印である。そのあたりに車を留め、徒歩で河原に出ることにした。
街頭一つとない山間の漆黒の闇に、地松の炎が揺らぎ道を知らせている。
川のせせらぎが聞こえる。車のテールランプも見えた。松上げの場所が近いと感じる。
更に闇の先に灯りが揺らぎ立ち、人影らしきものが判別できた。八枡の河原であろう。
そこに立てられた地松の一本づつに火が点されている。午後9時過ぎである。
次々に炎が立ち、河原の広さ知らせるように、暗闇にどんどんと広がってゆく。
地松の炎が風に流されると、地松と地松の間に火の守をする人の影が浮かぶ。
白煙が舞い上がると、炎に照らされ、やがて白煙は赤く染まっていく。
河原の背後には杉木立があることがわかる。
燈呂木場(とろぎば)と呼ぶ河原一帯は、まるで火の海が波打つように、炎と風とが戯れるのである。山間で見るこの光景だけでも感動し癒やされるが、まだまだプロローグである。
燈呂木場に刺し立てられた地松の数は約千本だという。その地松は将棋盤のように縦横に規則正しく正方形を描くように刺されている。地松は小さく簡素な松明で、竹の先にヒノキの割り木が縛ってある。
燈呂木場のあちこちで火の守をしていた集落の男衆が燈呂木のまわりに集まってきた。頭は手ぬぐいで鉢巻、法被に腕を通し、手甲脚絆に地下足袋を履いている。その男衆が上げ松といわれる手松明をグルグルとまわしだした。
火の玉が楕円を描いている。あちらにもこちらにも円弧ができている。
一つが天高く投げ上げられた。火の玉は円弧から飛び出すようにダッシュした直線を描いた。
直立している高さ約20m程の檜丸太(燈呂木)の先端につけられた籠(大笠)の方に向かっている。
力尽きたのか火の玉は放物線を描いて地面に急降下した。
次に投げ上げられた上げ松も同様である。観衆からため息が漏れる。
「しつかりせぇー」と声援がとぶ。
鉦、太鼓が鳴るなか、燈呂木の先の大笠めがけて、上げ松が繰り返しあちこちから何度なく飛び交う。大笠に届くか届かないかの上げ松があると、場内がどよめく。
大笠に入ったかと思うと転げ落ちるものもある。
こうして、幾つもの放物線が晩夏の夜空に描き出されるのである。
歓声と溜息が交互に繰り返されていく中、観衆と男衆は、大笠に上げ松を入れる一念で連帯し、いつのまにか一体となっている。
「オッー」と一斉のどよめきが、割れんばかりの拍手が山間にこだまする。
大笠がくすぶりはじめると、次々と入っていく。そして、火の手をあげ、夜空を焦がす神火と化した。
この火は愛宕山への献火となり、火除け、五穀豊穣の祈願が込められた若狭街道沿いの集落に残る伝統行事なのである。
クライマックスのあとにはフィナーレがある。
燈呂木が揺れ動き始めた。燃え盛る大笠が燈呂木もろともドーンと地面に。
火柱が立つ。
その中に燈呂木場に刺されていた千本の地松が投げ入れられた。そして藁が投げられ燃されようとしている。火の勢いは更に増し炎を噴き出した。
夜空を焦がしていた火は大地を焦がす火となり、その姿は川面にも映しだされた。
銀河系を飛び交う幻想の放物線から、灼熱の燃える太陽の映像へと変わった。
エピローグもあった。
燃え盛る太陽に向かって駆け出した男衆が、抱えた竿で炎の中を突き上げるのである。
火の粉は舞い上がり、踊り出す。次々と男衆は挑んでゆく。その度に火の粉が立ち上がり散りばめられるのである。なんと勇壮な姿なのか。
火が落ちると、男衆は伊勢音頭を高らかに練り歩いた。
公衆電話も携帯電話も使えない京都市左京区の秘境より自宅にたどり着いた時は、既に日付は変わっていた。
小生宅のお精霊さんは、松上げの火でお送りできたであろう。
公共交通機関では日帰りはできないばかりか宿もないので、くれぐれもお足の手配を確実にされてお出かけになられるように。
京都には「小文字」などない筈であるのに、大文字・小文字の検索結果サイトを並べている。思わず噴出してしまった。
「五山の送り火」と打ってやると通じるようである。
京都では「大文字」の単語を見て、「おおもじ」と読む人に出会ったことがない。
東山如意が嶽は「大文字山」と呼び、送り火のことは「大文字さん」で通じる。
祇園祭、清水寺と並び全国的にも知られる「大文字」も、電子頭脳には未だ理解できない文化なのである。日頃何かと手足になってくれているが、夏の夜空にくっきりと浮かびあがる風物詩を、その民間信仰を教えてやらねばならない程度だったのである。
昨夜、大文字さんが見えるところで、杯やコップを持って待ち、大の字を映しこみ飲み干す人がいた。なんという風流人かと思うが、そのような様子の人でもない。何故か・・・。
大文字さんの火が落ちると、翌朝早くから山に登る人もいる。今朝、瞬く間に火床の燃え殻が拾われ、無くなったようである。何故か・・・。
大文字の送り火は、お精霊さんの送り火なのだが、それらにどんなお呪いがあるのだろうか。
それらはいずれも無病息災のお呪いだという。そのお呪いで一年間無病息災に過ごせると言い習わされているのである。
火床の燃え殻は半紙に包まれお守りにされていた。
これで京の夏の祭典は終わり、やがて秋が訪れるといわれるが、町々にはまだまだ火の祭典が残っている。
大覚寺の宵弘法しかり、松上げしかり、京の夜空に火は焚かれている。
さて、左京区に残る送り火は「松上げ」と呼ばれ、その火の祭典を見ずして火祭りは語れないといえる。
火祭りの大方は松明やお火焚きで、その変容として、火渡り、火筒、山焼きなどがあるが、「松上げ」は火が放り投げられるもので、その美しさに圧倒されて、今もその光景が瞼に焼きついたままである。
大文字の後なら、8月23日の久多、24日の広河原、雲ヶ畑の三箇所で松上げが行われているから、是非お勧めしたい。
さて、今年は左京区花背八枡の「松上げ」に出かけた。
おそらく、京都人であっても、祭りの通にならないと、花背までは出かけないようである。まして、お盆の最中であり、大文字さんの前夜15日である。
花背の里まつりとして、地域住民の手で手厚く護られ俗化を免れているのかもしれない。
その間隙を縫って、お盆の渋滞道路を尻目に夕闇迫る鞍馬街道に車を走らせ花背に向かう。花背峠を越え、百井別れを経て別所集落に辿り着いた。市内のコンビニで買っておいた握り飯を口に運び、車中で腹ごしらえを済ませる。
気もそぞろである。夜9時に一斉点火である。
国道とは名ばかりの酷道477号線を走り、大布施(おおぶせ)の集落に入った。
ここから八枡にかけての地域は茅葺民家が点在している。日本で唯一の消防駐在所や地域でただ一つのスーパー「A-COOP」、ガソリンスタンド(モービル)がある。
それだけで安堵が得られる道中をやってきたのである。
やはり府道とは名ばかりの腐道美山広河原線を北行すると、山村都市交流の森の先の路肩に車が駐車している。これが目印である。そのあたりに車を留め、徒歩で河原に出ることにした。
街頭一つとない山間の漆黒の闇に、地松の炎が揺らぎ道を知らせている。
川のせせらぎが聞こえる。車のテールランプも見えた。松上げの場所が近いと感じる。
更に闇の先に灯りが揺らぎ立ち、人影らしきものが判別できた。八枡の河原であろう。
そこに立てられた地松の一本づつに火が点されている。午後9時過ぎである。
次々に炎が立ち、河原の広さ知らせるように、暗闇にどんどんと広がってゆく。
地松の炎が風に流されると、地松と地松の間に火の守をする人の影が浮かぶ。
白煙が舞い上がると、炎に照らされ、やがて白煙は赤く染まっていく。
河原の背後には杉木立があることがわかる。
燈呂木場(とろぎば)と呼ぶ河原一帯は、まるで火の海が波打つように、炎と風とが戯れるのである。山間で見るこの光景だけでも感動し癒やされるが、まだまだプロローグである。
燈呂木場に刺し立てられた地松の数は約千本だという。その地松は将棋盤のように縦横に規則正しく正方形を描くように刺されている。地松は小さく簡素な松明で、竹の先にヒノキの割り木が縛ってある。
燈呂木場のあちこちで火の守をしていた集落の男衆が燈呂木のまわりに集まってきた。頭は手ぬぐいで鉢巻、法被に腕を通し、手甲脚絆に地下足袋を履いている。その男衆が上げ松といわれる手松明をグルグルとまわしだした。
火の玉が楕円を描いている。あちらにもこちらにも円弧ができている。
一つが天高く投げ上げられた。火の玉は円弧から飛び出すようにダッシュした直線を描いた。
直立している高さ約20m程の檜丸太(燈呂木)の先端につけられた籠(大笠)の方に向かっている。
力尽きたのか火の玉は放物線を描いて地面に急降下した。
次に投げ上げられた上げ松も同様である。観衆からため息が漏れる。
「しつかりせぇー」と声援がとぶ。
鉦、太鼓が鳴るなか、燈呂木の先の大笠めがけて、上げ松が繰り返しあちこちから何度なく飛び交う。大笠に届くか届かないかの上げ松があると、場内がどよめく。
大笠に入ったかと思うと転げ落ちるものもある。
こうして、幾つもの放物線が晩夏の夜空に描き出されるのである。
歓声と溜息が交互に繰り返されていく中、観衆と男衆は、大笠に上げ松を入れる一念で連帯し、いつのまにか一体となっている。
「オッー」と一斉のどよめきが、割れんばかりの拍手が山間にこだまする。
大笠がくすぶりはじめると、次々と入っていく。そして、火の手をあげ、夜空を焦がす神火と化した。
この火は愛宕山への献火となり、火除け、五穀豊穣の祈願が込められた若狭街道沿いの集落に残る伝統行事なのである。
クライマックスのあとにはフィナーレがある。
燈呂木が揺れ動き始めた。燃え盛る大笠が燈呂木もろともドーンと地面に。
火柱が立つ。
その中に燈呂木場に刺されていた千本の地松が投げ入れられた。そして藁が投げられ燃されようとしている。火の勢いは更に増し炎を噴き出した。
夜空を焦がしていた火は大地を焦がす火となり、その姿は川面にも映しだされた。
銀河系を飛び交う幻想の放物線から、灼熱の燃える太陽の映像へと変わった。
エピローグもあった。
燃え盛る太陽に向かって駆け出した男衆が、抱えた竿で炎の中を突き上げるのである。
火の粉は舞い上がり、踊り出す。次々と男衆は挑んでゆく。その度に火の粉が立ち上がり散りばめられるのである。なんと勇壮な姿なのか。
火が落ちると、男衆は伊勢音頭を高らかに練り歩いた。
公衆電話も携帯電話も使えない京都市左京区の秘境より自宅にたどり着いた時は、既に日付は変わっていた。
小生宅のお精霊さんは、松上げの火でお送りできたであろう。
公共交通機関では日帰りはできないばかりか宿もないので、くれぐれもお足の手配を確実にされてお出かけになられるように。
5328-100817-8/15
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