競べ馬、ことしは東方が勝ってほしい

葵祭の前儀 賀茂競馬会 by 五所光一郎

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京都三大祭のひとつで最も歴史のある祭が葵祭であることは誰もが知る。
その葵祭路頭の儀、所謂王朝絵巻といわれる行列の本列、つまり主人公は斎王列ではなく勅使列であるというと、何人かが首を傾げる。

その勅使列を先導する先頭集団は「乗尻」と呼ばれ、近衛府の武官が着けていた舞楽衣装に身を包んだ騎馬隊に始まると言うと、京都でも知る者が半分に満たない。

その「乗尻」は、5月5日の上賀茂神社での神事「賀茂競馬会(かもくらべうまえ)」で、競っていた人だと気づく人はその三割にも満たなくなる。

騎馬隊である「乗尻」のあとに、行列の先払いを行う江戸幕府派遣の警備役「素襖(すほう)」が続き、第一列の、検非違使(けびいし)に山城使(やましろづかい)など巡行の警護にあたる者たちとなり、継ごう四列で勅使列は構成され、主役の勅使近衛使は第三列を行く。

路頭の儀の起源は、凶作の原因を封じ、民に安泰な暮らしをもたらした賀茂社の祭礼に、天皇の祝詞を読み上げお供え(御幣物)を奉納するために、勅使が御所から賀茂社へ行列する神事なのである。

決して雅な装いの仮装行列などではないのだ。

さて、その乗尻が主役を務める葵祭の神事をご覧になられたことはあるだろうか。
黄金週間最中の菖蒲の節句の5日正午過ぎに、上賀茂神社へ行かれると良い。
賀茂競馬会と文字の示すとおり、早馬の速さを競う勇壮な神事を見ることができる。正に天下の壮観であり、京都市登録無形民俗文化財に登録されている。

彼の吉田兼好は徒然草第四十一段でその光景に触れている。

「五月五日、上賀茂神社で競べ馬を見た時、乗っていた車の前に庶民どもが群がっており、競べ馬が見えなかった。仕方がないので、それぞれ車からおりて馬場の埒(らち)に近づいてみた。けれども、そこは黒山の人だかりで人々をかき分けて中に入って行けそうになかった。
そんなときに、向こうにあるセンダンの木に坊さんが登り、枝に座って競べ馬を見ている。後略」と。(意訳)

境内にあって、高いところから駆ける人馬を見ようとする気持に誰もが同感できる。今はそのような雑木は見つからないので登ることもできず、常識を忘れて人垣をかき分け、埒(らち)の前に陣取りたい思いになる筈だ。

埒とは、馬場と観客を仕切る境界の囲いのことで、杭と青竹で組まれた馬場の柵である。
余談になるが、「埒か明く」とか「埒が明かない」という言い回しが現在も使われている。この「埒」が「かたがつく」などの進展の意味で使われるようになったのは、賀茂競馬で、埒があるままだと15日の葵祭(賀茂祭)ができないことから、「埒が明かない」と使われるようになったと言われている。

興味が涌いてくれば絵図に尋ねるとよい。「賀茂社競馬図屏風 (横山華山筆)」や「京洛風俗図屏風賀茂競馬図 (藤原陽蘭筆)」などで数多く描かれている。
その写実に、賀茂競馬会が古式さながらに執り行われていることがよく分り、見物の楽しみが何倍増にもなることを請負える。

上賀茂神社に到着し、一の鳥居から二の鳥居への境内参道をゆっくりと歩く。

競べ馬を見物するための目印となる左手の四本の木々を押さえておきたい。
順に「馬出しの桜」「見返りの桐」「鞭打ちの桜」「勝負の楓(もみじ)」と、札が立っているので誰にも分るばかりか、馬場にはそれ以外の木々は生垣以外見当たらない。
この時季に設らえた埒を除けば、一年中いつ訪れてもこの光景は変わらず、葵祭とその賀茂競馬会のために存在している参道広場といって憚らない。

右手には斎王桜、御所桜が新緑の葉桜を見せて迎えている。
左手の竹垣で囲われたところや、右に木組みされた設えを目にすると、往時の空気が漂い、狩衣姿の番所役や儀式を見守る馬場殿の所司代、後見などの装いに合うと、和装の時代衣装で見物したいと思ってしまうだろう。

二の鳥居に近づくと、式次第に従い、勧盃、日形乗、月形乗、修祓、奉幣の儀を相済ませた乗尻の一団の姿が見えた。

まずは、県主であろう黒色束帯の長と朱色の打毬楽(たぎゅうらく)装束の乗尻が、神官に見送られ馬場に入り、その後、緋色束帯の長に蓬色(よもぎいろ)の狛鉾(こまぼこ)装束の乗尻が、同様に馬場に入った。

馬場では順次馬を馴らすべく、馬場末から馬場元へと九折南下(きゅうせつなんげ)という足ぞろえでの乗馬となる。
古くは野生馬を用いたため、真っ直ぐ歩かせると走り出す習性があることから生まれた調教であるが、そうして、「三遅」「巴」「小振」等と称する馬の気質を、乗尻が素早く掴む馬術が儀式化されているそうだ。
その古式の調教を「賀茂悪馬流」というから、相当に荒ぶる野生の馬だったのだろう。

馬体を揺さぶり、鼻息荒く跳ね暴れる馬がいた。
急に立ち止まり微塵とも動かずの構えを見せる馬もいた。
やがて走らされるのを知った馬が、乗尻との駆け引きを仕掛けているように小生には見える。人馬一体となる前の鬩(せめ)ぎあいなのだろうか。

乗尻は賀茂県主一族が勤めるのが習わしで、出走する馬は上賀茂代々の全国二十の荘園から出されていた歴史があり、現在も馬の名前にはその各荘園名がつけられていると聞く。

どうやら出走である。
最初は出走馬が一頭立てで駆け抜ける。
鞭を振り手綱をさばく乗尻を追うが、一瞬にして目の前を通り過ぎた。次々とアッという間に走り去り、駆け抜けた重く低い地響きが、しばらく体から抜けずに残っていてる。

あとで写真を見ると、最初に走り抜けた馬一頭だけは、着けられている馬具の装いが違っていた。胸当てから尻に到るまでたわわな房なのである。
聞いてみると、美作倭文庄(みまさかしどりのしょう)の馬で、荘園中第一番の格の馬である証で、三位の位の者が使うものであった。

いよいよ二頭立ての競馳(きょうち)だ。

勝負は、早くゴールに入った方が必ず勝ちではない。
出走する時すでに、約一馬身の差をつけて出走させられる。
砂時計もセンサーもない時代の知恵は、「馬出しの桜」から「勝負の楓」までの間に、出走時の馬身差がどれだけ広がったか、狭まったかで勝敗を決していたのである。

その馬身差を見極めるのに見張り台のような櫓が組まれていた。参道右手の馬場殿と御所桜の真ん中辺りである。
判定役が赤扇を挙げると左方(朱色の衣装)の勝ち、青扇を挙げると右方(蓬色の衣装)の勝ちとされている。

走り終わった組は、二の鳥居前を経て馬場殿まで進み出て、手綱を上げ報告をする。
勝った乗尻は禄絹を鞭で受け取り、それを頭上で2回まわし、勝ち馬には菖蒲がつけられていた。
左方右方に別れ、二頭ずつ十番二十頭の勝負の末、赤扇の左方の勝ち数が多い年は豊作と占っていたようだ。今は、一組二頭立て十二頭で六番の勝負を競っている。

競べ馬は、平安中期・堀河天皇の寛治七年(1093年)に、宮中武徳殿の儀式を移して上賀茂神社に奉納されて以来、九百年以上今日まで続いている。
奉納された由縁は、内裏の女官達が菖蒲の根の長短を競う皐月の遊びに興じていたところ、賀茂社の菖蒲の根が長く、いつも勝利を射止めたため、その御礼として「競馬」を奉納したのが始まりと伝える。

その由来に因み、同日早朝より頓宮遷御(とんぐうせんぎょ)、菖蒲根合わせの儀のあと、本殿祭が執り行われている。

これに先立ち5月1日には、5日の競馬に出場する馬足の優劣を定める足汰式(あしぞろえしき)が競馬会同様に行われ、5日の競馳の番立て組み合わせを決める習わしである。

観光行事化した葵祭で物足りなくなってきた人には、深いい意外な京都に触れる絶好の機会であるとお奨めしている。


京洛風俗図屏風
http://www.kokugakuintochigi.ac.jp/sankokan/collection/2rekishi/item4_popup.html
上賀茂神社
http://www.kamigamojinja.jp/


【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
5386-110510-5月

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