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7月1日は祇園祭の吉符入りである。各山鉾町では祭礼奉仕の取り決めや、神事の打ち合わせが行われる。
長刀鉾はこの日がお千度まいりの日で、町内一同が生稚児を伴い参拝し、神事の無事を祈っている。
この光景が恒例のように繰り返し報じられるので、祇園祭の夏がやってきたことを知らないものは少なく、テレビの全国ネットの1日のニュース番組の編成を言い当てる者がいるぐらいである。
翌2日の恒例の行事が、「くじ取り式」である。
この日から宵山までの祇園祭の祭事については、全国ネットで流れることはまずない。ローカルニュースとして地元の新聞やテレビで報じられることとなる。
全国の京都フリークや祇園祭ファンにとっては、インターネットでの京都ポータルサイトや、更に即時性を持つブログ、フェイスブックなどSNSの投稿記事によって、祇園祭の詳細な情報を今や得ることになっている。
書籍やガイドブックにおいては、蓄積情報の定番的で固定化した情報は得られても、ライブ感覚を満たすには程遠く、生活者としての声も伝わってこないからである。
俗によく使われている「祇園祭お千度まいり 八坂神社なう(now)」などの表現情報が、写真・動画つきで必要とされているのである。
まるで、そこに今いるような臨場感が、確かに伝わってくるものだ。
2日午前10時、京都市役所市議会議場に向かった。
「祇園祭くじ取り式、市役所前なう!」である。
市役所正面玄関は閉じられています。今日は土曜日だからです。
河原町通の方へ回ります。ありました。これです。
「祇園祭くじ取り式会場」の看板が立っています。案内矢印の通りに進みます。
守衛さんがこちらを睨んでいます。
くじ取り式の傍聴者の受付のようです。一般傍聴は定員70名限定で申込者に抽選で葉書が送られているようです。葉書のない人は市役所内に入れないのです。
ジャーン! ちゃんと持っています。一般傍聴券が当たってましたよ。
それを差し出します、・・・受付の名簿と葉書が今照らし合わされています。
市議会議場までの階段をあがりました。
こんな所へ入るのは初めてなので、ドキドキしています。
ここです。ドアをゆっくり開けると・・・わぁっー・歌舞練場の二階席みたいです。
この調子には慣れない所為か、書きづらいので、現地レポートは後略する。
議場は、壇上に並ぶ者も議場に集まる鉾町代表者も、全員が紋付袴の正装で、厳粛な空気が立ち込めていた。
壇上向って左手には清々講社などの理事一同が居並び、右手は奉行役の市長、山鉾連合会理事長、八坂神社宮司で、議場にはくじを引く32の鉾町の代表者が、各々の鉾町に伝わるくじを入れる文箱を用意し、式次第に沿ってくじ取りを待っている。
このくじは、17日の山鉾巡行の巡行順位を決めるためのくじである。
32基の山鉾のうち、参集し立ち会うがくじを引かない鉾町がある。
この鉾を「くじ取らず」と呼ぶが、古来よりその順位が決まっている。
前祭巡行の先頭1番の長刀鉾、5番の函谷鉾と、21番放下鉾、22番岩戸山、殿(しんがり)23番の船鉾は不動の位置なのである。
残る18の鉾町が、順次進み出てくじを取り、山鉾名とその順位を読み上げ、同時にくじを議場に向かって示す。
前の巡行のくじ取りのあと、同様に後の巡行9基のくじ取りが行われる。
後の巡行にも、くじ取らずの山鉾がある。1番の北観音山、2番の橋弁慶山、そして9番目の南観音山である。休み山で居祭となっているが、大船鉾は、くじ取らずの殿で不動の位置であることは変わっていない。
大船鉾は復興に向けて準備中なので、くじこそ取らないが、期待を肩に希望を胸に、この議場に座り陪席していた。
くじ取りの前に、奉行の「くじ改め」がある。用意された三宝にのったくじが壇上で開かれ確認されている。場内は咳もきれない空気が漂っていた。
一人づつ登壇し、くじを取り、壇上正面の奉行に示し、確認された後、議場に示す習わしで行われている。
「○○山、鉾一番」とトップをきったくじ取りが読み上げられた。
すると、場内の緊張の糸が切れるかのように、笑い声が零れどよめいた。
鉾一番などのくじはないからであり、ましてや、くじを引いているのは山を保有すでる鉾町だからである。
そんなジョークも交え、くじ取り式は執り行われていた。
そもそも祇園祭には「くし取り式」はなかった行事のようだ。
つまり、長刀鉾に続き四条通を巡行する順は、先争いにより決められていたことになる。
出発点までの距離から考えると、自ずから順番は決まりそうなものであるが、常に一番近い位置にある孟宗山が山一番となり、順次距離の順となるとも限らなかったことを表わしている。
先を争う鉾町同士のせめぎ会いが大路小路で展開されていたことを想像すると、静の山鉾どころか動の山鉾という時代があったのかもしれない。
「くじ取り式」が始められたのは、室町時代の明応9年(1500年)からであると。
つまり、おおよそ500年間は競い合いの時代があり、くじ取りとなって500年が経つことになる。
おそらく、先の500年の競い合いの中で、事故も起きたであろうし、鉾町同士の喧嘩もあったであろう。その総括として、応仁の乱の後祇園祭を復活するに際し、鉾町間の町衆の合議で「くじ取り式」に治まったという歴史もまことに興味深い。
その「くじ取り式」が市会議場に移されたのは昭和28年(1953年)だという。
以前に浄妙山の古老に聞いた話では、明治時代は京都府庁や市役所で、終戦直後は八坂神社でも行われていて、転々としてると。
更に江戸時代には、京都所司代の立会いのもとに、「六角堂」で「くじ取り式」は行わうものと決められていたと聞いていた。
確かに、六角堂には祇園社の祠が今も建っている。ユネスコ無形文化遺産に登録され,名実共に「世界の宝」となった祇園祭の山鉾巡行。
京の町衆の情熱と英知によって継承されてきた祭り事に、語り継がれていない歴史の断片に好奇心は募るばかりである。
長刀鉾はこの日がお千度まいりの日で、町内一同が生稚児を伴い参拝し、神事の無事を祈っている。
この光景が恒例のように繰り返し報じられるので、祇園祭の夏がやってきたことを知らないものは少なく、テレビの全国ネットの1日のニュース番組の編成を言い当てる者がいるぐらいである。
翌2日の恒例の行事が、「くじ取り式」である。
この日から宵山までの祇園祭の祭事については、全国ネットで流れることはまずない。ローカルニュースとして地元の新聞やテレビで報じられることとなる。
全国の京都フリークや祇園祭ファンにとっては、インターネットでの京都ポータルサイトや、更に即時性を持つブログ、フェイスブックなどSNSの投稿記事によって、祇園祭の詳細な情報を今や得ることになっている。
書籍やガイドブックにおいては、蓄積情報の定番的で固定化した情報は得られても、ライブ感覚を満たすには程遠く、生活者としての声も伝わってこないからである。
俗によく使われている「祇園祭お千度まいり 八坂神社なう(now)」などの表現情報が、写真・動画つきで必要とされているのである。
まるで、そこに今いるような臨場感が、確かに伝わってくるものだ。
2日午前10時、京都市役所市議会議場に向かった。
「祇園祭くじ取り式、市役所前なう!」である。
市役所正面玄関は閉じられています。今日は土曜日だからです。
河原町通の方へ回ります。ありました。これです。
「祇園祭くじ取り式会場」の看板が立っています。案内矢印の通りに進みます。
守衛さんがこちらを睨んでいます。
くじ取り式の傍聴者の受付のようです。一般傍聴は定員70名限定で申込者に抽選で葉書が送られているようです。葉書のない人は市役所内に入れないのです。
ジャーン! ちゃんと持っています。一般傍聴券が当たってましたよ。
それを差し出します、・・・受付の名簿と葉書が今照らし合わされています。
市議会議場までの階段をあがりました。
こんな所へ入るのは初めてなので、ドキドキしています。
ここです。ドアをゆっくり開けると・・・わぁっー・歌舞練場の二階席みたいです。
この調子には慣れない所為か、書きづらいので、現地レポートは後略する。
議場は、壇上に並ぶ者も議場に集まる鉾町代表者も、全員が紋付袴の正装で、厳粛な空気が立ち込めていた。
壇上向って左手には清々講社などの理事一同が居並び、右手は奉行役の市長、山鉾連合会理事長、八坂神社宮司で、議場にはくじを引く32の鉾町の代表者が、各々の鉾町に伝わるくじを入れる文箱を用意し、式次第に沿ってくじ取りを待っている。
このくじは、17日の山鉾巡行の巡行順位を決めるためのくじである。
32基の山鉾のうち、参集し立ち会うがくじを引かない鉾町がある。
この鉾を「くじ取らず」と呼ぶが、古来よりその順位が決まっている。
前祭巡行の先頭1番の長刀鉾、5番の函谷鉾と、21番放下鉾、22番岩戸山、殿(しんがり)23番の船鉾は不動の位置なのである。
残る18の鉾町が、順次進み出てくじを取り、山鉾名とその順位を読み上げ、同時にくじを議場に向かって示す。
前の巡行のくじ取りのあと、同様に後の巡行9基のくじ取りが行われる。
後の巡行にも、くじ取らずの山鉾がある。1番の北観音山、2番の橋弁慶山、そして9番目の南観音山である。休み山で居祭となっているが、大船鉾は、くじ取らずの殿で不動の位置であることは変わっていない。
大船鉾は復興に向けて準備中なので、くじこそ取らないが、期待を肩に希望を胸に、この議場に座り陪席していた。
くじ取りの前に、奉行の「くじ改め」がある。用意された三宝にのったくじが壇上で開かれ確認されている。場内は咳もきれない空気が漂っていた。
一人づつ登壇し、くじを取り、壇上正面の奉行に示し、確認された後、議場に示す習わしで行われている。
「○○山、鉾一番」とトップをきったくじ取りが読み上げられた。
すると、場内の緊張の糸が切れるかのように、笑い声が零れどよめいた。
鉾一番などのくじはないからであり、ましてや、くじを引いているのは山を保有すでる鉾町だからである。
そんなジョークも交え、くじ取り式は執り行われていた。
そもそも祇園祭には「くし取り式」はなかった行事のようだ。
つまり、長刀鉾に続き四条通を巡行する順は、先争いにより決められていたことになる。
出発点までの距離から考えると、自ずから順番は決まりそうなものであるが、常に一番近い位置にある孟宗山が山一番となり、順次距離の順となるとも限らなかったことを表わしている。
先を争う鉾町同士のせめぎ会いが大路小路で展開されていたことを想像すると、静の山鉾どころか動の山鉾という時代があったのかもしれない。
「くじ取り式」が始められたのは、室町時代の明応9年(1500年)からであると。
つまり、おおよそ500年間は競い合いの時代があり、くじ取りとなって500年が経つことになる。
おそらく、先の500年の競い合いの中で、事故も起きたであろうし、鉾町同士の喧嘩もあったであろう。その総括として、応仁の乱の後祇園祭を復活するに際し、鉾町間の町衆の合議で「くじ取り式」に治まったという歴史もまことに興味深い。
その「くじ取り式」が市会議場に移されたのは昭和28年(1953年)だという。
以前に浄妙山の古老に聞いた話では、明治時代は京都府庁や市役所で、終戦直後は八坂神社でも行われていて、転々としてると。
更に江戸時代には、京都所司代の立会いのもとに、「六角堂」で「くじ取り式」は行わうものと決められていたと聞いていた。
確かに、六角堂には祇園社の祠が今も建っている。ユネスコ無形文化遺産に登録され,名実共に「世界の宝」となった祇園祭の山鉾巡行。
京の町衆の情熱と英知によって継承されてきた祭り事に、語り継がれていない歴史の断片に好奇心は募るばかりである。
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