早咲きの梅の開花が春一番を告げ、節分が近づいてきた。
神社では節分祭、寺院では節分会と呼ばれ、一年の厄除け、厄払い、厄落としが行われ立春を迎える。
迎春の準備の厄除けは、神社でも寺院でも各家庭に到るまで豆撒きが習わしである。
厄除け豆撒きは、当たり前のように、申し合わせたように炒られた大豆が使われる。
何処もがどうして豆を撒くのか、何故炒った豆なのか・・・。
昔からどこの家でもそうしているからでは疑問の回答にならない。
その由縁は、「魔目(鬼の目)」を打つ、「魔滅」の力を持つと語呂合わせをして、縁起を担いだようである。
それは生の豆では駄目なのである。生の豆を撒けば、やがて邪気の芽が出るからだそうだ。
その炒った大豆が、邪悪の象徴である鬼を懲らしめる力を持つと信じられてきた。
節分の日にその威力を持つ炒った豆を、今も自分の歳の数に一つ足して食べられている。食べた翌日が立春、つまり新年が厄除招福の一年間であることを願っての習わしだったのである。
節分祭の執り行われている吉田神社に詣でると、境内の露天に「年越しそば」の頂ける店が出されているのをご存知だろうか。
本宮から末社斎場所大元宮への参道の途中に「河道家のれん会」の提灯がかかっているところだ。
小生は、3日夜の「火炉祭」の点火前に、聖護院の仕出し処山秀さんの出店している屋台で「吉田名物元祖山秀の恵方巻」を買い求め、「河道家のれん会の年越しそば」を頂くことを恒例にしている。
それは旧暦の大晦日であるという気分にどっぷりと浸かれる時で、古き時代の知らない在りし日にタイムスリップできるところなのである。
節分の吉田神社の境内には、約1000店の露店が建ち並び期間中には数十万人の賑わいがある。弘法さんや天神さんの市とは一味違う賑わいは、吉田山の持つ神さびた独特な空気の所為かも知れない。
限られた言葉しか持ち合わせない小生では、粛々とした山蔭と節分の賑わいから産み出される、得も知れない空気を到底表わすことができない。
年越しそばで体が温まったところで大元宮に向かい、普段閉ざされた門を潜り、極めて特異な形状の神域に入るのである。本殿は茅葺入母屋造の八角形で六角の後房を付けている。
この本殿のまわりには、延喜式内全3132座の天神地祇八百万神(あまつかみくにつかみやおよろずのかみ)が祀られ、吉田神道を創始した吉田兼倶がその拠点として1484年に創建したもので、根本道場になっていたのである。
この日、本殿正面の厄塚には太い注連縄が掛けられており、その注連縄に触れようと次々と崇敬者が列をなす。神々との深い繋がりを持ち、あらゆる厄を払い、来る一年の健康招福を祈る節分詣発祥の社と間近に接し、感応しようとするのである。
そもそも、吉田神社は、平安遷都から65年、貞観元年(859年)中納言藤原山蔭が平安京の鎮守神として、また藤原一族の繁栄を祈願して、藤原家の氏神である奈良の春日社四神、健御賀豆知命(たけみかづちのみこと)、伊波比主命(いはひぬしのみこと)、天之子八根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ)を勧請したのが始まりである。
吉田神社が創建された神楽岡は平安京の表鬼門にあたり、平安京の北辺を守護する船岡山、西北を守護する双ヶ岡とともに、古くから祭・葬礼が行われた地であった。
地名にある神楽岡の名の表すように、まさに神座(かみくら)の岡で、神の居るところと考えられていたのである。
吉田神社の社家吉田家は、もと卜部(うらべ)氏で、朝廷に仕え陰陽寮(おんみょうりょう)において占い事を司る古い家柄であり、朝廷からの信頼に篤いものがあった。
それゆえに、室町時代以来の伝統を誇る吉田神社の節分祭は、その宮中にて毎年執行されていたものを、古式通りに厳修に継承されているもので、他の神事に先んじて夙に有名で、京洛の一大行事となっている。
「鬼は外 福は内」と豆撒きをして、自分の家に棲み着いている鬼を追い祓う習わしのルーツは、宮中で行われていた「追儺式」に見ることができるという。節分前日の吉田神社に行けば一部始終がわかる。
日が落ちるまでの境内では、愛嬌を振り撒いたり、記念撮影に応じてくれていた鬼たちも、夕闇が迫り黄昏を迎えると一変する。
大元宮で神事を執り行った鬼は、邪が憑いたように唸り声をあげ本宮への坂を下る。
本宮舞殿にて、陰陽師が祭文を奏上し終え四方を拝すると、朱の鳥居より金棒を振り回した赤鬼、青鬼、黄鬼が、怒声とともに次々となだれ込む。
時を得たりと、黄金四つ目の赤い仮面を被った方相氏が大声を発し盾を打つこと3度、呼応するかのように、群臣(ぐんしん)は三鬼を追う。
煩悩にある憤怒や悲壮や苦悩が表された赤青黄の鬼たちは、罵声に呻き、叫び声をあげて更に暴れ狂うと、松明を掲げた侲子(しんし/小童)を従えた方相氏は、「嗚呼ッ!」と吼え猛る。
すると、金棒を手にした鬼が次々と方相氏に襲いかかる。しかし、盾で防がれてしまう。
到底歯が立たぬ方相氏に、鬼は足を折り観念し、とうとう逃げ出すのである。
最後の一幕は、退散する鬼が二度と来ぬように、場に残る鬼の穢れを祓うように、上卿(しょうけい)と殿上人が桃の弓につがえた葦の矢を天に放つ。
これが宮中の追儺式で、「鬼やらい」と呼ばれているものである。
熊皮を被り黄金四ツ目に玄(くろ)い衣・赤い裳を着けた方相氏は、目にも恐ろしい形相であるが、鬼を退治する古代中国に伝わる(「礼記」)精霊であったと聞く。
鬼は外からやってくるわけではない。邪悪は自分の中に棲むものなのである。
自らの内から、邪気を外へ追い払い、福を自分の内に呼び込む祈りを節分に行い、立春を迎える習わしなのである。
そろそろ浄火の点じられる時刻である。
本宮三ノ鳥居前に設けられた直径5m高さ5mの八角柱の火炉には、おびただしい数の旧い神札が積み上げられている。
ゆく一年への感謝と、くる一年が明朗であることを念じながら、焚き上がる炎を眺めていると、そこに鬼の姿が揺らめいて見えた。
小生は、この炎の熱を感じ眺めるために吉田神社に節分詣しているようなものだ。
その火が落ちたとき、吉田山に春が訪れる。
吉田神社の節分祭は、節分の前日午前8時に「疫神祭(えきじんさい)」、午後6時より「追儺式(ついなしき)」、当日午後11時に「火炉祭(かろさい)」と三部に分かち、翌朝9時半には後日祭が執り行われている。
詣でられたなら、梔(くちなし)色の疫神斎の神符を是非授かられると良い。後水尾天皇(1596〜1680年)の御宸筆にして、悪病災難除の神符で、節分三日間に限り授与されている。
神社では節分祭、寺院では節分会と呼ばれ、一年の厄除け、厄払い、厄落としが行われ立春を迎える。
迎春の準備の厄除けは、神社でも寺院でも各家庭に到るまで豆撒きが習わしである。
厄除け豆撒きは、当たり前のように、申し合わせたように炒られた大豆が使われる。
何処もがどうして豆を撒くのか、何故炒った豆なのか・・・。
昔からどこの家でもそうしているからでは疑問の回答にならない。
その由縁は、「魔目(鬼の目)」を打つ、「魔滅」の力を持つと語呂合わせをして、縁起を担いだようである。
それは生の豆では駄目なのである。生の豆を撒けば、やがて邪気の芽が出るからだそうだ。
その炒った大豆が、邪悪の象徴である鬼を懲らしめる力を持つと信じられてきた。
節分の日にその威力を持つ炒った豆を、今も自分の歳の数に一つ足して食べられている。食べた翌日が立春、つまり新年が厄除招福の一年間であることを願っての習わしだったのである。
節分祭の執り行われている吉田神社に詣でると、境内の露天に「年越しそば」の頂ける店が出されているのをご存知だろうか。
本宮から末社斎場所大元宮への参道の途中に「河道家のれん会」の提灯がかかっているところだ。
小生は、3日夜の「火炉祭」の点火前に、聖護院の仕出し処山秀さんの出店している屋台で「吉田名物元祖山秀の恵方巻」を買い求め、「河道家のれん会の年越しそば」を頂くことを恒例にしている。
それは旧暦の大晦日であるという気分にどっぷりと浸かれる時で、古き時代の知らない在りし日にタイムスリップできるところなのである。
節分の吉田神社の境内には、約1000店の露店が建ち並び期間中には数十万人の賑わいがある。弘法さんや天神さんの市とは一味違う賑わいは、吉田山の持つ神さびた独特な空気の所為かも知れない。
限られた言葉しか持ち合わせない小生では、粛々とした山蔭と節分の賑わいから産み出される、得も知れない空気を到底表わすことができない。
年越しそばで体が温まったところで大元宮に向かい、普段閉ざされた門を潜り、極めて特異な形状の神域に入るのである。本殿は茅葺入母屋造の八角形で六角の後房を付けている。
この本殿のまわりには、延喜式内全3132座の天神地祇八百万神(あまつかみくにつかみやおよろずのかみ)が祀られ、吉田神道を創始した吉田兼倶がその拠点として1484年に創建したもので、根本道場になっていたのである。
この日、本殿正面の厄塚には太い注連縄が掛けられており、その注連縄に触れようと次々と崇敬者が列をなす。神々との深い繋がりを持ち、あらゆる厄を払い、来る一年の健康招福を祈る節分詣発祥の社と間近に接し、感応しようとするのである。
そもそも、吉田神社は、平安遷都から65年、貞観元年(859年)中納言藤原山蔭が平安京の鎮守神として、また藤原一族の繁栄を祈願して、藤原家の氏神である奈良の春日社四神、健御賀豆知命(たけみかづちのみこと)、伊波比主命(いはひぬしのみこと)、天之子八根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ)を勧請したのが始まりである。
吉田神社が創建された神楽岡は平安京の表鬼門にあたり、平安京の北辺を守護する船岡山、西北を守護する双ヶ岡とともに、古くから祭・葬礼が行われた地であった。
地名にある神楽岡の名の表すように、まさに神座(かみくら)の岡で、神の居るところと考えられていたのである。
吉田神社の社家吉田家は、もと卜部(うらべ)氏で、朝廷に仕え陰陽寮(おんみょうりょう)において占い事を司る古い家柄であり、朝廷からの信頼に篤いものがあった。
それゆえに、室町時代以来の伝統を誇る吉田神社の節分祭は、その宮中にて毎年執行されていたものを、古式通りに厳修に継承されているもので、他の神事に先んじて夙に有名で、京洛の一大行事となっている。
「鬼は外 福は内」と豆撒きをして、自分の家に棲み着いている鬼を追い祓う習わしのルーツは、宮中で行われていた「追儺式」に見ることができるという。節分前日の吉田神社に行けば一部始終がわかる。
日が落ちるまでの境内では、愛嬌を振り撒いたり、記念撮影に応じてくれていた鬼たちも、夕闇が迫り黄昏を迎えると一変する。
大元宮で神事を執り行った鬼は、邪が憑いたように唸り声をあげ本宮への坂を下る。
本宮舞殿にて、陰陽師が祭文を奏上し終え四方を拝すると、朱の鳥居より金棒を振り回した赤鬼、青鬼、黄鬼が、怒声とともに次々となだれ込む。
時を得たりと、黄金四つ目の赤い仮面を被った方相氏が大声を発し盾を打つこと3度、呼応するかのように、群臣(ぐんしん)は三鬼を追う。
煩悩にある憤怒や悲壮や苦悩が表された赤青黄の鬼たちは、罵声に呻き、叫び声をあげて更に暴れ狂うと、松明を掲げた侲子(しんし/小童)を従えた方相氏は、「嗚呼ッ!」と吼え猛る。
すると、金棒を手にした鬼が次々と方相氏に襲いかかる。しかし、盾で防がれてしまう。
到底歯が立たぬ方相氏に、鬼は足を折り観念し、とうとう逃げ出すのである。
最後の一幕は、退散する鬼が二度と来ぬように、場に残る鬼の穢れを祓うように、上卿(しょうけい)と殿上人が桃の弓につがえた葦の矢を天に放つ。
これが宮中の追儺式で、「鬼やらい」と呼ばれているものである。
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鬼は外からやってくるわけではない。邪悪は自分の中に棲むものなのである。
自らの内から、邪気を外へ追い払い、福を自分の内に呼び込む祈りを節分に行い、立春を迎える習わしなのである。
そろそろ浄火の点じられる時刻である。
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5352-130124-2/3
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