暮れなずむ伏見の空を民の願い焦がす

おしたけさん 伏見稲荷大社 火焚祭 by 五所光一郎

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11月上旬から下旬にかけて、今でも京都の空には煙が立ち昇る。
氏神さんで御火焚き祭の神事が行われているからだ。

幼少の頃は、町内の家々でも「おしたけさん(おひたきさん)」と呼び習わす庭燎(にわび)があって、初冬の風物詩だった。
秋に取れた新米を神前にお供えし感謝を捧げ、家内安全、無病息災、商売繁盛、火難除けなどの願い事を書いた護摩木火焚串)を焚いて神仏に祈っていたのである。
小正月の「どんど」と同様に無闇に捨てられないお守りや縁起物も焚き上げ、「みかん」や「おこし」、「おたま」と呼んでいた紅白のお火焚き饅頭が供えられていた。

残り火で焼かれたみかんなどは「風邪をひかないから」と言われ配られ、飽食でない時代に、神の力を授かれるという新米で作られた「おこし」や宝珠の焼印の押された「おたま」の御下がりが嬉しかったものである。

住宅事情や地球温暖化問題で、すっかり町の風情は変わってしまったが、氏神さんで続けられるお火焚きに護摩木火焚串)を捧げる信仰は未だ篤い。
古今、洋の東西を問わず、火の神が煙とともに供物を天上に運び、天の恩寵にあずかろうとする素朴な信仰から生まれたものであろう。火は穢れを祓う力を持ち、その火の中は清浄の場と化すと考えたのであろう。
古より、火の神は太陽の神とも考えられ、不浄なものを消滅させる力があると信じられてきたのである。

お火焚の由来には諸説あるが、京都では宮中で行われていた新嘗祭(にいなめさい/収穫祭)のゆかりで、江戸時代に民間に広まったとも、庭燎を焚いて神楽を舞ったものの名残とも言われている。
そして、市内の商家や町内の「おしたけ」が見られなくなって半世紀ほど経ち、今は氏神さんに頼っている。
日本で一番大きな火柱が立つと言われる伏見稲荷大社の火焚祭は、古くから執り行われていたと伝わるが天文12年(1543年)に途絶え、文久3年(1863年)に再興するも、明治初年に再度途絶え、近年また行われるようになったとある。(全国年中行事辞典/東京堂出版 p393)

民間信仰の「おしたけ」は、密教の修法である護摩法要に通じていると思われるし、修験道の採燈護摩にも見られる修法でもある。
不利益を被らないように取り繕うことを「誤魔化(ごまか)す」と言うが、江戸時代にただの灰を高野聖の装束を身に着けて弘法大師の「護摩の灰」と称して偽物を売り歩く者がいたことに由来するらしい。そのことから、旅人の道連れに金品を盗み取る者のことを「護摩の灰」という。つまり、「誤魔」は「護摩」から転じ、「化す」は「だまかす」「まぎらかす」の意であるという説がある。



横道に反れたが、然様に護摩木(火焚串)を焚きあげる信仰は、民間に深く浸透してきたものなのである。

さて、伏見稲荷大社の火焚祭の一部始終を見んと参詣した時を回想してみよう。

お稲荷さんの火焚祭は五穀豊穣を祈願し、春の田植えの時に山から迎えた稲荷大神を、秋の収穫の後、感謝して再び炎とともに山に送るために、三基の火床を設け神田で採れた稲のわらを燃やし、信者等から奉納された火焚串(願い事、名前、年齢が書かれた幅約2センチ、長さ約25センチの串)を焚き上げるものであるという。

鮮やかな朱の鳥居や楼門が青空の下で眩しい。お狐さんの咥えるものを見上げながら楼門を潜り、本殿へと歩を進めニ拝二拍手一拝して、左手のお札授与所へ向かう。
朱の三宝に大小二種類の火焚串(神道護摩木)が用意されているのが目に入る。大は千円、小は二百円の初穂料と案内され、山積みされていた。
多少戸惑いながらも、拝観料も要らないのだからと、一瞬下世話な計算が脳裏を掠めたあと、願意が祈願される、火焚串大を手に取る。

暫くすると、本殿前拝所に結界の縄が張られた。
縄の周りにはすぐさま人垣ができる。その人垣を縫うように一束の藁束が運ばれ、石畳の上に砂の火床が設けられ、真ん中に立て整えられた。
藁束の下部を広げバランスを取られるのだが、時に倒れそうになると、観衆から声が漏れる。
神職に尋ねると、その藁束はお山の神田で稲刈りしたあとの藁だという。

本殿では供物が奉じられ、拍手と祝詞が響き渡っている。

神火が用意されているようである。木箱に納められた神火は警備員に付き添われ、神官が厳かに持ち運んだ。木箱から蝋燭に遷された神火が藁に近づけられるや、大きな炎が立ち燃え盛る。
火が鎮まると、拝所内では神楽が鳴り出し、巫女舞が始まった。

五穀の豊饒をはじめ万物を育てたもう稲荷大神のご神恩に感謝する「本殿の儀」を滞りなく終えると、裏山の神苑斎場へと場が移され、火焚神事が始まるのである。



榊を手にした宮司を先頭に神火が続き、神官、巫女、崇敬者が長い列を成し次々に祭場へと進む。祭場で待ち構える大勢の参拝者が見守る中、列が入場するとざわめきが広がる。すでに三箇所に火床が設けられ、夥しい数の火焚串が山積みされている。

運ばれた神火は三本の青竹の松明を点火し、更に、分かたれた松明の神火は覆いかぶさったヒバに遷り、火床に差し込まれる。めくるめく立ち込めた白煙は、モクモクと天にも届かん勢いで青空をかき消してゆくのだ。

ヒバの炎が寄せられた火焚串に遷らんとするや、見る見るうちに白煙は炎へと姿を変えてゆく。揺らめく炎の織り成す模様、形は、まるで神の化身かと思う。
その炎の中へ、次から次へと火焚串は奉られ、投げくべられる。見ているだけなのに体が火照ってくる。


たかあまはらにかむづまります。
すめらがむつかむろぎかむろみのみこともちてやほよろづのかみたちを。
かむつどへにつどへたまひ・・・


参列者一同の大祓詞(おおはらえのことば)が祭場に轟く。
配布されていた祝詞を繰り返し繰り返し奉唱していると、各火床を、榊・塩・清め水を以って斎主が清め祓って往くのである。その間も火焚串はドンドンくべられ、焚き上げられ、荒ぶる炎は鎮まることを知らない勢いで更に燃え盛っている。
そして、神楽女による神楽舞が奏される頃には、少しづつ炎は鎮まりだしていた。

平安時代、犯した罪や穢れを祓うため、祭祀官中臣氏が朱雀門で一同で奏上していたのは、こんなのだったのだろうかと思った。
20万人と謂われる願意が記された火焚串が灰となり、罪障消滅、万福招来の祈願が滞りなく執り修められた頃は、陽は西の空に沈み始めていた。

午後6時から執り行われた、人長舞を舞う御神楽に参列できずに帰路となったが、次回は是否欠かせないと思っている。

町内や家々での「おしたけ」が見られなくなっても、塩が効いて餡子の入った、宝珠の焼印のある紅白のお火焚き饅頭「おたま」は、今も、十一月の京のおまん屋はんには、欠かさず並べられている。

5514-131107-11月

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