北野天満宮の梅花祭では、メジロが梅苑を群れなして飛び交っていた。
枝から枝へと気忙しく飛び移り、梅の花々の蜜を吸っている。
梅の花色に鶯色の羽色が良く似合い、春色を感じる。
小生は梅苑内の茶店から眺めていた。
上七軒の老松さんが、梅苑公開時のみ開店している茶店である。
入苑券には、茶店での香梅煎茶と麩焼菓子「菅公梅」がセットされていたので、紫の毛氈が掛けられた床机に腰を掛け、いただいた。
枝ぶりや花のつき具合から、剪定や堆肥と、丁寧な世話がされていることが容易にわかる。ものの見事に紅と白の花が開花し、梅の香りが漂ってくる。
お土居下の梅苑を見下ろしながら下りてゆくと、紙屋川沿いの梅並木が紅白交互の色をなしている。そこで春日野という品種の梅ノ木を見つけた。
春日野は、一本の樹幹から伸び分ける枝の片方は紅梅、もう一方は白梅が咲いているのだ。梅苑では紅白交互に植栽されているので、気づく人は少ない。
豊臣秀吉が、洛中の周りに土嚢を積み上げ築いたお土居を見上げながら、境内へと向かった。
初天神に、黄色の花をつけていた蝋梅は色落ちしていたが、梅苑と同数の千本を誇る紅白梅は満開直前で、灯篭に掛かる枝垂れ梅は、まるで桜のように見えてしまう。
いよいよ本命、真打となる本殿前右近の梅である。
筆舌に尽くしがたいとは、このことである。
紫宸殿前の左近の桜を、北野の右近の梅と取り替えても見劣りすることはない。
平安初期までは、北野の紅梅のような梅が、紫宸殿の左近に座り花咲かせていたのである。
桜から梅に、変えられることなく現在を迎えていれば、雛飾りの桜が梅で飾られている筈だったのだから。
そんなことに思いを馳せながら、眺めさせてもらった。
さて、北野天満宮のある一帯の西陣では、街角の通りにも、足を止めるに値する梅によく出会う。
とりわけ、今出川通から丸太町通間、七本松通界隈にある寺院を歩かれると良い。
梅花祭を終えた土曜日の朝に、千中(千本通中立売のこと)で商談を済ませた後、北野商店街をぶらつき、七本松通界隈のお寺さんを回ることにした。
庶民的な匂いのするこの町は、誰もが人懐っこく素朴さがまだ残っている。
町家が、モダンな三階建に改築されたり、コインパークになったりと、変貌はしつつある。しかし、未だ、軒の上に鍾馗(しょうき)さん、壁には仁丹広告の入った住所表示板を見つけることができる。
それらの光景は、記憶の彼方になった機織の音などを蘇らせてくれる。そして、昭和の時代に置き忘れてきたものを確認することができる。
だから、小生は歩くのだ。
まず、千中から北野商店街を西に歩き出した。北野商店街が続く中立売通は七本松通を過ぎると一条通と名前が変わり、北西に向かっている。
長五郎餅本店の前を通り越して、こども文化会館の東隣にある宥清寺(ゆうせいじ)の前に立った。
宥清寺は本門仏立宗の大本山であるが、正門前の寺名が刻まれた石碑の大きさに驚かされる。そして、その石碑の真横に並ぶ紅梅の背丈が、この石碑に挑み、越さんばかりの高さで、堂々としたものなのである。
山門を潜ると、左手に、これまた背高い百万霊会供養塔がある。石碑の前に三種四本の梅が低木であるものの、濃い紅、薄紅、白と実に可憐に咲いている。
七本松通に戻り南に下り、立本寺の前を通り過ぎると、三番町である。白壁に瓦がのった塀が一直線に長く続いている。福寿院、観音寺、極楽寺、大雄寺、浄円寺と連なる塀の途中には、小さな山門が三つ見える。
浄土宗大雄寺の枝垂れ白梅の背は高く、長く枝垂れる枝が、地蔵尊の安置された黒金のアーモンド型ドームに掛かっている清楚な様は一見に値する。
参道には多種の椿が開花し、黄色いマンサクが華奢な四枚の細長い花びらを咲かせ、山門右手には開花前の紅梅、本堂前には背高い紅梅が五分咲きであった。
更に南に下がり、下立売通を東に入ると浄土宗祐正寺である。
ここには実に秀逸な樹形の枝垂れ紅梅が一本ある。背高は妻取地蔵堂の屋根におよび、整った円錐状の傘筒のようで、地を這うまでに垂れた枝は、根元近くに咲いた水仙と競演している。手狭な境内にあるが,名木の梅と呼ぶに相応しい。
七本松通に戻り北上すると、東角に地福寺の枝垂れ紅梅の枝が塀外に伸び、愛くるしい花の桃色が瓦の色で引き立っている。角より西を覗くと、その枝垂れ紅梅が山茶花の真紅の花を抱擁しているところが見られる。
ここから北東が六番町で、慈眼寺、本昌寺、五脚院、光清寺、華光寺、福勝寺、大通院などなどと、千本通まではお寺の密集地である。その北が、水上勉の小説で一躍有名になった夕霧楼の五番町である。
出水通の東にある曹洞宗慈眼寺では、松と枝垂桜の大木に圧倒されたが、小さくみえた三本の梅も、貼られていた立春大吉のお札ほどに存在感があった。
そのうちの一本は珍しい春日野である。
その隣の日蓮宗華光寺(げこうじ)では鐘を撞かせてもらった。
一帯に響き渡る音に黙祷の上、心静かに祈りを捧げ、境内で休憩を取る。
先ほど買い求めた草餅をほおばりながら、お地蔵さんを見入ると、自然と心が和むものである。
随分とゆるりと寛げ、井戸端会議がされていても不思議のない町中の境内にもかかわらず、本堂には伏見城で豊臣秀吉が奉祀していた大毘沙門天が安置されているというから、京都の歴史の重さを感じさせられる。
更に、南無妙法蓮華経と彫られた大石碑と本堂との間にある紅梅の枝振りは、非常に力強く、石碑に劣らないくらいに男性的で、枝に付く花も誇らしげに見える。
このように西陣の街にある山門の一つづつを潜り、観光寺院にはない生活に根ざした匂いを感じ取りながらの梅見であった。
小生の好奇心をくすぐる町歩きの梅見は続く。
枝から枝へと気忙しく飛び移り、梅の花々の蜜を吸っている。
梅の花色に鶯色の羽色が良く似合い、春色を感じる。
小生は梅苑内の茶店から眺めていた。
上七軒の老松さんが、梅苑公開時のみ開店している茶店である。
入苑券には、茶店での香梅煎茶と麩焼菓子「菅公梅」がセットされていたので、紫の毛氈が掛けられた床机に腰を掛け、いただいた。
枝ぶりや花のつき具合から、剪定や堆肥と、丁寧な世話がされていることが容易にわかる。ものの見事に紅と白の花が開花し、梅の香りが漂ってくる。
お土居下の梅苑を見下ろしながら下りてゆくと、紙屋川沿いの梅並木が紅白交互の色をなしている。そこで春日野という品種の梅ノ木を見つけた。
春日野は、一本の樹幹から伸び分ける枝の片方は紅梅、もう一方は白梅が咲いているのだ。梅苑では紅白交互に植栽されているので、気づく人は少ない。
豊臣秀吉が、洛中の周りに土嚢を積み上げ築いたお土居を見上げながら、境内へと向かった。
初天神に、黄色の花をつけていた蝋梅は色落ちしていたが、梅苑と同数の千本を誇る紅白梅は満開直前で、灯篭に掛かる枝垂れ梅は、まるで桜のように見えてしまう。
いよいよ本命、真打となる本殿前右近の梅である。
筆舌に尽くしがたいとは、このことである。
紫宸殿前の左近の桜を、北野の右近の梅と取り替えても見劣りすることはない。
平安初期までは、北野の紅梅のような梅が、紫宸殿の左近に座り花咲かせていたのである。
桜から梅に、変えられることなく現在を迎えていれば、雛飾りの桜が梅で飾られている筈だったのだから。
そんなことに思いを馳せながら、眺めさせてもらった。
さて、北野天満宮のある一帯の西陣では、街角の通りにも、足を止めるに値する梅によく出会う。
とりわけ、今出川通から丸太町通間、七本松通界隈にある寺院を歩かれると良い。
梅花祭を終えた土曜日の朝に、千中(千本通中立売のこと)で商談を済ませた後、北野商店街をぶらつき、七本松通界隈のお寺さんを回ることにした。
庶民的な匂いのするこの町は、誰もが人懐っこく素朴さがまだ残っている。
町家が、モダンな三階建に改築されたり、コインパークになったりと、変貌はしつつある。しかし、未だ、軒の上に鍾馗(しょうき)さん、壁には仁丹広告の入った住所表示板を見つけることができる。
それらの光景は、記憶の彼方になった機織の音などを蘇らせてくれる。そして、昭和の時代に置き忘れてきたものを確認することができる。
だから、小生は歩くのだ。
まず、千中から北野商店街を西に歩き出した。北野商店街が続く中立売通は七本松通を過ぎると一条通と名前が変わり、北西に向かっている。
長五郎餅本店の前を通り越して、こども文化会館の東隣にある宥清寺(ゆうせいじ)の前に立った。
宥清寺は本門仏立宗の大本山であるが、正門前の寺名が刻まれた石碑の大きさに驚かされる。そして、その石碑の真横に並ぶ紅梅の背丈が、この石碑に挑み、越さんばかりの高さで、堂々としたものなのである。
山門を潜ると、左手に、これまた背高い百万霊会供養塔がある。石碑の前に三種四本の梅が低木であるものの、濃い紅、薄紅、白と実に可憐に咲いている。
七本松通に戻り南に下り、立本寺の前を通り過ぎると、三番町である。白壁に瓦がのった塀が一直線に長く続いている。福寿院、観音寺、極楽寺、大雄寺、浄円寺と連なる塀の途中には、小さな山門が三つ見える。
浄土宗大雄寺の枝垂れ白梅の背は高く、長く枝垂れる枝が、地蔵尊の安置された黒金のアーモンド型ドームに掛かっている清楚な様は一見に値する。
参道には多種の椿が開花し、黄色いマンサクが華奢な四枚の細長い花びらを咲かせ、山門右手には開花前の紅梅、本堂前には背高い紅梅が五分咲きであった。
更に南に下がり、下立売通を東に入ると浄土宗祐正寺である。
ここには実に秀逸な樹形の枝垂れ紅梅が一本ある。背高は妻取地蔵堂の屋根におよび、整った円錐状の傘筒のようで、地を這うまでに垂れた枝は、根元近くに咲いた水仙と競演している。手狭な境内にあるが,名木の梅と呼ぶに相応しい。
七本松通に戻り北上すると、東角に地福寺の枝垂れ紅梅の枝が塀外に伸び、愛くるしい花の桃色が瓦の色で引き立っている。角より西を覗くと、その枝垂れ紅梅が山茶花の真紅の花を抱擁しているところが見られる。
ここから北東が六番町で、慈眼寺、本昌寺、五脚院、光清寺、華光寺、福勝寺、大通院などなどと、千本通まではお寺の密集地である。その北が、水上勉の小説で一躍有名になった夕霧楼の五番町である。
出水通の東にある曹洞宗慈眼寺では、松と枝垂桜の大木に圧倒されたが、小さくみえた三本の梅も、貼られていた立春大吉のお札ほどに存在感があった。
そのうちの一本は珍しい春日野である。
その隣の日蓮宗華光寺(げこうじ)では鐘を撞かせてもらった。
一帯に響き渡る音に黙祷の上、心静かに祈りを捧げ、境内で休憩を取る。
先ほど買い求めた草餅をほおばりながら、お地蔵さんを見入ると、自然と心が和むものである。
随分とゆるりと寛げ、井戸端会議がされていても不思議のない町中の境内にもかかわらず、本堂には伏見城で豊臣秀吉が奉祀していた大毘沙門天が安置されているというから、京都の歴史の重さを感じさせられる。
更に、南無妙法蓮華経と彫られた大石碑と本堂との間にある紅梅の枝振りは、非常に力強く、石碑に劣らないくらいに男性的で、枝に付く花も誇らしげに見える。
このように西陣の街にある山門の一つづつを潜り、観光寺院にはない生活に根ざした匂いを感じ取りながらの梅見であった。
小生の好奇心をくすぐる町歩きの梅見は続く。
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