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4月18日午後8時 「ミッドナイト念仏in御忌」が行われた。
翌朝7時までの12時間の夜通し念仏ライブである。
場所は知恩院国宝三門楼上で、入場無料、出入り自由とあった。
御忌逮夜法要といわれると抹香臭いと遠ざけられることも多いが、カタカナは便利で重宝である。
視点が変わった好奇心が湧いてくるから不思議だ。
聞くところによると・・・、
非公開の国宝三門がライトアップされ、闇夜に浮かびあがり、近づいていくと木魚が時を刻むように聞こえてくるという。
楼上への急勾配の階段を上ると、灯明だけが灯り、周囲は人影がわかる程度で、やわらかな橙色の光りが天井の龍を照らし出し、真下の正面に座す釈迦牟尼像が四本のロウソクの炎に、一際輝き浮かびあがるとか。
脇に並ぶ羅漢像は灯りに陰影を見せながら、荘厳な空気を生み出していたという。
規則正しく繰り返され叩かれる木魚に合わせて、「南無阿弥陀仏」の称名が延々と楼内に響くと、先導に続き自然と称えだしてしまい、み仏の限りない慈悲の光のなかに生かされ、今日を生きる勇気と歓びが感じられたと、その体験を知人が話してくれた。
御忌(ぎょき)とは、浄土宗の宗祖法然上人の忌日法要のことをいう。
法然上人は、1212年1月25日、80歳で入滅されたが、1524年、後柏原天皇より「知恩院にて法然上人の御忌を勤めよ」という「大永の御忌鳳詔」が出され、これより法然上人の忌日法要を「御忌」と呼ぶようになった。
当初は1月に勤められていたが、明治10年から4月に勤められるようになり、現在にいたっていると聞く。
元来、「御忌」という言葉は天皇や皇后の忌日法要を指す語句であることから、法然上人の恩徳の高さが如何に讃えられているかがうかがえる。
法然上人といえば、1175年、わが国で専修念仏の旗印を掲げて開創し、浄土門が独立して一宗派となった最初である。
以後、浄土宗を筆頭に、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗が次々に開宗されてゆき、鎌倉仏教として新しい教えが確立されていった。
新宗派の開祖は、平安仏教からの分派で、いずれも比叡山で学び、巣立ち、もっぱら民衆を危機から救う実践仏教を行う宗派の魁であった。
そもそも、朝鮮半島の百済より古墳・飛鳥時代に伝わった仏教は、崇仏派(すうぶつは)の蘇我氏(そがし)と排仏派の物部氏(もののべし)が争い(587年)、蘇我氏が勝利したことにより、異国の宗教が朝廷に認められたことに始まる。
604年「十七条の憲法」を制定した聖徳太子は、「仏教の国」を宣言し、寺院建立や遣隋使により文化と国力を富ませた。
710年の平城京遷都より、天皇や貴族の間での奈良仏教の興隆を見て、祈祷や法会が盛んになり、政治や国家権力との深い結びつきが腐敗を産み、まだまだ民衆とは程遠い宗教であった。
794年平安京遷都となると、奈良の寺院との癒着が絶たれ、国家護持の仏教には変わりはないものの、最澄の天台宗や空海の真言宗が開かれ、平安二宗の新しい風が吹いた。
それは、戒律を授ける権限を国家から取り戻し、民衆を救済する実践仏教の基礎となっていくものであった。
平安時代末期になると、戦乱や災害、疫病が続き、身分の上下に関わらず現世に危機感を抱き、救いを求めるようなり、これに法然の教えが応えたのである。
それまでの宗派と違い、難しい理論や厳しい修行ではなく、在家の信者が生活の合間に実践できるような易しい教え(易行)が説かれたのである。
その教えは、観想念仏のように阿弥陀仏や浄土を心の中でイメージする瞑想は特に必要でなく、仏の名を独特の声明で称える称名念仏を更に進め、「南無阿弥陀仏」と、ただひたすら称える専修念仏を説くものであった。
この布教は、修行もお堂も仏画などもいらず、時間空間にも囚われず、幅広い層の民衆の信仰を得ることとなった。
法然に続く鎌倉仏教の開祖たちも仏教の民衆化を図り、その信者の増大は、日本の仏教を確立していったといえる。
盆踊りに名残を残す踊念仏も、その一旦の広まりのひとつである。
民衆化された信仰も、江戸時代に入ると寺請制度(檀家制度)が定められ、宗派ごとに本山・本寺が組織化され、すべての人をいずれかのお寺の檀家として登録させる政治の道具となった。
洋の東西古今いつの世も、宗教が時の権力者に影響されながら伝えられてきた事実が、ここにもある。
檀家制度は、寺院にとっての信者の確保と経済的安定を見ることに成り、寺院仏教は帰依や解脱を望む布教活動を行うことより、葬儀や供養を主体とする宗教に変化していったのであろう。
文化庁の「宗教年鑑」によると、わが国には約9600万人の仏教徒と、約75000の寺院、30万体を超える仏像があると記されている。
民衆は、いつの時代にも、幸福という現世利益を求めている。
しかし、幸福とは何かを解く場所や人にめぐり合うことが少ない。
来年こそは、「ミッドナイト念仏 in 御忌」に出向いて、南無阿弥陀仏を称え続ける時空間を共にして見たい。
25日の命日まで、御忌サラナの行事が行われているというから、この機会に覗いてみることにする。
やすらぎを得た先に見られるものが、闇夜でないことを願って。
翌朝7時までの12時間の夜通し念仏ライブである。
場所は知恩院国宝三門楼上で、入場無料、出入り自由とあった。
御忌逮夜法要といわれると抹香臭いと遠ざけられることも多いが、カタカナは便利で重宝である。
視点が変わった好奇心が湧いてくるから不思議だ。
聞くところによると・・・、
非公開の国宝三門がライトアップされ、闇夜に浮かびあがり、近づいていくと木魚が時を刻むように聞こえてくるという。
楼上への急勾配の階段を上ると、灯明だけが灯り、周囲は人影がわかる程度で、やわらかな橙色の光りが天井の龍を照らし出し、真下の正面に座す釈迦牟尼像が四本のロウソクの炎に、一際輝き浮かびあがるとか。
脇に並ぶ羅漢像は灯りに陰影を見せながら、荘厳な空気を生み出していたという。
規則正しく繰り返され叩かれる木魚に合わせて、「南無阿弥陀仏」の称名が延々と楼内に響くと、先導に続き自然と称えだしてしまい、み仏の限りない慈悲の光のなかに生かされ、今日を生きる勇気と歓びが感じられたと、その体験を知人が話してくれた。
御忌(ぎょき)とは、浄土宗の宗祖法然上人の忌日法要のことをいう。
法然上人は、1212年1月25日、80歳で入滅されたが、1524年、後柏原天皇より「知恩院にて法然上人の御忌を勤めよ」という「大永の御忌鳳詔」が出され、これより法然上人の忌日法要を「御忌」と呼ぶようになった。
当初は1月に勤められていたが、明治10年から4月に勤められるようになり、現在にいたっていると聞く。
元来、「御忌」という言葉は天皇や皇后の忌日法要を指す語句であることから、法然上人の恩徳の高さが如何に讃えられているかがうかがえる。
法然上人といえば、1175年、わが国で専修念仏の旗印を掲げて開創し、浄土門が独立して一宗派となった最初である。
以後、浄土宗を筆頭に、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗が次々に開宗されてゆき、鎌倉仏教として新しい教えが確立されていった。
新宗派の開祖は、平安仏教からの分派で、いずれも比叡山で学び、巣立ち、もっぱら民衆を危機から救う実践仏教を行う宗派の魁であった。
そもそも、朝鮮半島の百済より古墳・飛鳥時代に伝わった仏教は、崇仏派(すうぶつは)の蘇我氏(そがし)と排仏派の物部氏(もののべし)が争い(587年)、蘇我氏が勝利したことにより、異国の宗教が朝廷に認められたことに始まる。
604年「十七条の憲法」を制定した聖徳太子は、「仏教の国」を宣言し、寺院建立や遣隋使により文化と国力を富ませた。
710年の平城京遷都より、天皇や貴族の間での奈良仏教の興隆を見て、祈祷や法会が盛んになり、政治や国家権力との深い結びつきが腐敗を産み、まだまだ民衆とは程遠い宗教であった。
794年平安京遷都となると、奈良の寺院との癒着が絶たれ、国家護持の仏教には変わりはないものの、最澄の天台宗や空海の真言宗が開かれ、平安二宗の新しい風が吹いた。
それは、戒律を授ける権限を国家から取り戻し、民衆を救済する実践仏教の基礎となっていくものであった。
平安時代末期になると、戦乱や災害、疫病が続き、身分の上下に関わらず現世に危機感を抱き、救いを求めるようなり、これに法然の教えが応えたのである。
それまでの宗派と違い、難しい理論や厳しい修行ではなく、在家の信者が生活の合間に実践できるような易しい教え(易行)が説かれたのである。
その教えは、観想念仏のように阿弥陀仏や浄土を心の中でイメージする瞑想は特に必要でなく、仏の名を独特の声明で称える称名念仏を更に進め、「南無阿弥陀仏」と、ただひたすら称える専修念仏を説くものであった。
この布教は、修行もお堂も仏画などもいらず、時間空間にも囚われず、幅広い層の民衆の信仰を得ることとなった。
法然に続く鎌倉仏教の開祖たちも仏教の民衆化を図り、その信者の増大は、日本の仏教を確立していったといえる。
盆踊りに名残を残す踊念仏も、その一旦の広まりのひとつである。
民衆化された信仰も、江戸時代に入ると寺請制度(檀家制度)が定められ、宗派ごとに本山・本寺が組織化され、すべての人をいずれかのお寺の檀家として登録させる政治の道具となった。
洋の東西古今いつの世も、宗教が時の権力者に影響されながら伝えられてきた事実が、ここにもある。
檀家制度は、寺院にとっての信者の確保と経済的安定を見ることに成り、寺院仏教は帰依や解脱を望む布教活動を行うことより、葬儀や供養を主体とする宗教に変化していったのであろう。
文化庁の「宗教年鑑」によると、わが国には約9600万人の仏教徒と、約75000の寺院、30万体を超える仏像があると記されている。
民衆は、いつの時代にも、幸福という現世利益を求めている。
しかし、幸福とは何かを解く場所や人にめぐり合うことが少ない。
来年こそは、「ミッドナイト念仏 in 御忌」に出向いて、南無阿弥陀仏を称え続ける時空間を共にして見たい。
25日の命日まで、御忌サラナの行事が行われているというから、この機会に覗いてみることにする。
やすらぎを得た先に見られるものが、闇夜でないことを願って。
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