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障壁画「聚楽第図」や「聚楽城図」にも描かれている「梅雨の井」は、千利休が聚楽第での茶の湯に使った井戸水といわれている。
梅雨になると井戸の水位が上がり、溢れ出すことからその名がついたという。
その名跡を冠せられた井戸は、平成2年地上げ屋の手にその地は地上げされ、そこにあった八雲神社もろとも壊され廃墟の荒地となっている。
辛うじて、梅雨の井に打たれたポンプが残されているが、ポンプは錆びて押しようもない状態である。
近所の人の話によると、地下鉄烏丸線の工事の跡、水が出なくなったという。
それまでは、ポンプで水を汲み上げ、使っていたと話してくれた。
また、ポンプの取り付けられる前は、石組みの井戸であったらしい。昭和25年に井戸の石組みが崩落したため、ボーリングされたようである。
ポンプの背後に京都府の駒札が立つ。昭和三年と記され、聚楽第の唯一の遺構として今日まで親しまれてきた。
その井戸は「東堀川町」にあり、森島康雄氏による「聚楽第跡考定図」(森島康雄「聚楽第と城下町」)では聚楽第外郭の東濠内の位置と推定されている。
聚楽第取り壊しのあと、名水のでる井戸が掘られ、聚楽第を愛する町民が「梅雨の井」の名蹟を引き継いだものと考えられるが、発掘調査を待たなければ、真相は誰にも分からないのである。
京町家が立ち並んでいた頃は、まだ聚楽第の遺構の片鱗も垣間見られたが、町家がマンションになり、3階建ての住宅に建て直されると、その名残さえ覗えなくなった。
一条通の北堀跡はマンションの一角となり、顕彰されることもなく、誰もが気づけず素通りしてしまっている。
時代の波とともに町の顔が変貌し、町の個性が消えてゆくことは残念なことである。
保存と開発という二律相反の調整が、時代の知恵で出来ないものなのだろうか。
秀吉の天下統一により政庁として創建された聚楽第は、秀吉の甥豊臣秀次が養子となり、天正19年(1591年)、後継者として関白の座に就いた時より、関白秀次に譲り渡された。
嫡子鶴松を亡くし養子を取り、その翌々年、実子の誕生を諦めていた秀吉と淀君の間に秀頼が誕生した。秀次を養子としていた秀吉は、秀次か疎ましくなってきたのであろう。文禄5年(1595年)、秀次は謀反の罪に問われ高野山で自刃させられることとなった。
聚楽第に住まう秀次の家族は聚楽第を追われ、秀次一族などは鴨川で打ち首にされたばかりか、自刃した秀次は鴨川の河原に晒し首にされた。
秀次に関連した大名も監禁させられ、とうとう秀吉は、自らが誇りとしていた聚楽第を破却するまでに至った。
こうして、築後8年で姿を消した聚楽第の多くの遺構は伏見城へ移され、一部は大徳寺唐門、西本願寺飛雲閣として移された。
瓦に金箔まで施し自らの権力の象徴としていた聚楽第を、嫡子の行く末を考え、自らの保身のために、自らの手で破壊しなければならなかったのである。
それは、秀吉の死後、豊臣の勢力を弱体させ、徳川に豊臣を消滅させられる要因のひとつと成ったとも言える。
歴史の流れとは皮肉なものである。
まさしく、聚楽第は豊臣の栄華と悲劇を綴った夢の跡なのである。
豊臣政治の中心に置かれていた聚楽第はなくなったが、一方、豊臣の京都改造事業は残っている。
それは「寺町」、「天正の地割り」、「御土居」である。
御土居を回ってみることにした。
寺町通は東京極大路と呼ばれ、都の東の一番端にあたる大通りであった。
往時、東京極大路の東側の寺の裏は鴨川の河川敷である。丁度鴨川そのものが御土居堀と見立てたのである。現在の河原町通は御土居堀の役目を果たし、その西には土塁があったわけだ。
つまり、鴨川沿いに御薗橋までが東の御土居堀なのである。河原町通は葵橋西詰で行き止まりで、葵橋より北は加茂街道となる。加茂街道の西堤下も堀が寺町通沿いに上御霊神社を経て紫明通辺りから北大路通まで続いていたのである。すると北大路以北の加茂街道は往時の面影を残していることになる。
御土居の台形の断面は、最大のところで基底部が約20m、頂部が約5m、高さ約5mで、土塁の外側に沿って堀があり、その幅は最大18m、深さも4m程度であったことが、大正9年(1920年)に京都府により実測されている。
御土居は豊臣政権の管理下にあり、角倉家に管理が委ねられ、民間人は立ち入れなかった。御土居の内を洛中、御土居の外は洛外とされ、洛外との通行に十箇所の出入り口が設けられ、御土居の上は竹林にされていたとある。
さて、御土居跡はどこに残っているのだろう。
東では、渉成園の河原町通側の築山は土塁が使われているといわれる場所である。
そして、京都御所西の廬山寺の墓地を歩くと、東端の河原町通側に「御土居跡」の石碑が立ち、周囲より高くなっていた。河原町通の京都府立医大側からは雑木林があるようにしか見えない。
御薗橋南の加茂中学校ところに御土居の姿が残っている。明らかに土塁で囲われていた様子がわかる。巨大ななまこを寝かせたようで,後に堀川通がその御土居を切断したことがありありと見て取れる。御土居の北端の東隅が加茂中学校になっており、加茂街道側は、東西と南北に伸びる土塁のつなぎ目が残されている。史跡に指定されフェンスで囲われていた。
御薗橋西詰は、堀川通と加茂街道が交わるところで、「御土居総図」と現在の地図を眺め合わせると、堀川通が上賀茂神社の神山と東寺を結ぶように洛中の中心線のように通っている。
そこから西南西へ鷹峰に向かって御土居と堀が造られていたと図絵に残る。
堀川玄以通を西に向かった。
「大宮交通公園」は、なだらかな坂の場所にあり、バス停からも御土居の姿がフェンス越し見える。公園に入ると、史跡には指定されていないが立て札が残されている。坂を下るように土塁は横たわり、その台形の上部の断面もわかるように残されていた。交通公園に遊ぶ親子連れのいるあたりに深い堀があったのだろう。
続いて「玄琢下の御土居」に期待してゆくと、坂の途中に大きな石碑が見みえた。まるで御土居が覆いかぶさってくるように感じた。玄琢下(大宮土居町)の規模は大きく、状態も良く残され、土塁の高さと堀の深さを実感できる。土塁ののり面には竹が植えられていて、往時の様子を思い浮かべやすかった。
どこかの写真で「史蹟 御土居跡」の「御」の文字までしか読めない石碑が、地面に埋まっているのを見たことがあるが、残念ながらそれを見つけることができなかった。坂の上から眺めていると胸が踊ってくるのを感じた。
胸の高鳴りもそのままに鷹峰旧土居町にあるという「御土居史跡公園」に向かう。
鷹峰の光悦寺から然林房の南を鏡石通に下り、入り組んだ道を右往左往しながら、往時を偲ぶがごとく、紙谷川沿いに御土居を洛外から見上げるように歩いた。
紙谷川を御土居堀として利用した西端は、その高低差が都市城壁を造ろうとしていたことを教えている。中国の都をモデルにして、当時の集落の環濠城塞化の延長線上に考え出されたものであろう。
「しょうざん」の東の土手で御土居跡の土塁の斜面を見たあと、仏教大学北側の京都朝鮮第三初級学校の東隣「御土居史跡公園」にあるベンチで一休みすることにした。
御土居史跡公園の南側は御土居に設けられた切通しの中野道で、西の小道に面して茅葺の入母屋造りの鷹ヶ峯番小屋が設けられていたと案内看板に記されていた。
御土居の頂上に立ち見下ろすと、急斜面の下に民家が建ち、その先が紙屋川の谷へと繋がっていた。
数多くのベンチが土塁の上にあるその静かな場所は、時折通る風とともに悠久の時を感じさせてくれる。
御土居史跡公園は、昭和56年(1981年)に史跡公園として整備されたところである。
梅雨になると井戸の水位が上がり、溢れ出すことからその名がついたという。
その名跡を冠せられた井戸は、平成2年地上げ屋の手にその地は地上げされ、そこにあった八雲神社もろとも壊され廃墟の荒地となっている。
辛うじて、梅雨の井に打たれたポンプが残されているが、ポンプは錆びて押しようもない状態である。
近所の人の話によると、地下鉄烏丸線の工事の跡、水が出なくなったという。
それまでは、ポンプで水を汲み上げ、使っていたと話してくれた。
また、ポンプの取り付けられる前は、石組みの井戸であったらしい。昭和25年に井戸の石組みが崩落したため、ボーリングされたようである。
ポンプの背後に京都府の駒札が立つ。昭和三年と記され、聚楽第の唯一の遺構として今日まで親しまれてきた。
その井戸は「東堀川町」にあり、森島康雄氏による「聚楽第跡考定図」(森島康雄「聚楽第と城下町」)では聚楽第外郭の東濠内の位置と推定されている。
聚楽第取り壊しのあと、名水のでる井戸が掘られ、聚楽第を愛する町民が「梅雨の井」の名蹟を引き継いだものと考えられるが、発掘調査を待たなければ、真相は誰にも分からないのである。
京町家が立ち並んでいた頃は、まだ聚楽第の遺構の片鱗も垣間見られたが、町家がマンションになり、3階建ての住宅に建て直されると、その名残さえ覗えなくなった。
一条通の北堀跡はマンションの一角となり、顕彰されることもなく、誰もが気づけず素通りしてしまっている。
時代の波とともに町の顔が変貌し、町の個性が消えてゆくことは残念なことである。
保存と開発という二律相反の調整が、時代の知恵で出来ないものなのだろうか。
秀吉の天下統一により政庁として創建された聚楽第は、秀吉の甥豊臣秀次が養子となり、天正19年(1591年)、後継者として関白の座に就いた時より、関白秀次に譲り渡された。
嫡子鶴松を亡くし養子を取り、その翌々年、実子の誕生を諦めていた秀吉と淀君の間に秀頼が誕生した。秀次を養子としていた秀吉は、秀次か疎ましくなってきたのであろう。文禄5年(1595年)、秀次は謀反の罪に問われ高野山で自刃させられることとなった。
聚楽第に住まう秀次の家族は聚楽第を追われ、秀次一族などは鴨川で打ち首にされたばかりか、自刃した秀次は鴨川の河原に晒し首にされた。
秀次に関連した大名も監禁させられ、とうとう秀吉は、自らが誇りとしていた聚楽第を破却するまでに至った。
こうして、築後8年で姿を消した聚楽第の多くの遺構は伏見城へ移され、一部は大徳寺唐門、西本願寺飛雲閣として移された。
瓦に金箔まで施し自らの権力の象徴としていた聚楽第を、嫡子の行く末を考え、自らの保身のために、自らの手で破壊しなければならなかったのである。
それは、秀吉の死後、豊臣の勢力を弱体させ、徳川に豊臣を消滅させられる要因のひとつと成ったとも言える。
歴史の流れとは皮肉なものである。
まさしく、聚楽第は豊臣の栄華と悲劇を綴った夢の跡なのである。
豊臣政治の中心に置かれていた聚楽第はなくなったが、一方、豊臣の京都改造事業は残っている。
それは「寺町」、「天正の地割り」、「御土居」である。
御土居を回ってみることにした。
寺町通は東京極大路と呼ばれ、都の東の一番端にあたる大通りであった。
往時、東京極大路の東側の寺の裏は鴨川の河川敷である。丁度鴨川そのものが御土居堀と見立てたのである。現在の河原町通は御土居堀の役目を果たし、その西には土塁があったわけだ。
つまり、鴨川沿いに御薗橋までが東の御土居堀なのである。河原町通は葵橋西詰で行き止まりで、葵橋より北は加茂街道となる。加茂街道の西堤下も堀が寺町通沿いに上御霊神社を経て紫明通辺りから北大路通まで続いていたのである。すると北大路以北の加茂街道は往時の面影を残していることになる。
御土居の台形の断面は、最大のところで基底部が約20m、頂部が約5m、高さ約5mで、土塁の外側に沿って堀があり、その幅は最大18m、深さも4m程度であったことが、大正9年(1920年)に京都府により実測されている。
御土居は豊臣政権の管理下にあり、角倉家に管理が委ねられ、民間人は立ち入れなかった。御土居の内を洛中、御土居の外は洛外とされ、洛外との通行に十箇所の出入り口が設けられ、御土居の上は竹林にされていたとある。
さて、御土居跡はどこに残っているのだろう。
東では、渉成園の河原町通側の築山は土塁が使われているといわれる場所である。
そして、京都御所西の廬山寺の墓地を歩くと、東端の河原町通側に「御土居跡」の石碑が立ち、周囲より高くなっていた。河原町通の京都府立医大側からは雑木林があるようにしか見えない。
御薗橋南の加茂中学校ところに御土居の姿が残っている。明らかに土塁で囲われていた様子がわかる。巨大ななまこを寝かせたようで,後に堀川通がその御土居を切断したことがありありと見て取れる。御土居の北端の東隅が加茂中学校になっており、加茂街道側は、東西と南北に伸びる土塁のつなぎ目が残されている。史跡に指定されフェンスで囲われていた。
御薗橋西詰は、堀川通と加茂街道が交わるところで、「御土居総図」と現在の地図を眺め合わせると、堀川通が上賀茂神社の神山と東寺を結ぶように洛中の中心線のように通っている。
そこから西南西へ鷹峰に向かって御土居と堀が造られていたと図絵に残る。
堀川玄以通を西に向かった。
「大宮交通公園」は、なだらかな坂の場所にあり、バス停からも御土居の姿がフェンス越し見える。公園に入ると、史跡には指定されていないが立て札が残されている。坂を下るように土塁は横たわり、その台形の上部の断面もわかるように残されていた。交通公園に遊ぶ親子連れのいるあたりに深い堀があったのだろう。
続いて「玄琢下の御土居」に期待してゆくと、坂の途中に大きな石碑が見みえた。まるで御土居が覆いかぶさってくるように感じた。玄琢下(大宮土居町)の規模は大きく、状態も良く残され、土塁の高さと堀の深さを実感できる。土塁ののり面には竹が植えられていて、往時の様子を思い浮かべやすかった。
どこかの写真で「史蹟 御土居跡」の「御」の文字までしか読めない石碑が、地面に埋まっているのを見たことがあるが、残念ながらそれを見つけることができなかった。坂の上から眺めていると胸が踊ってくるのを感じた。
胸の高鳴りもそのままに鷹峰旧土居町にあるという「御土居史跡公園」に向かう。
鷹峰の光悦寺から然林房の南を鏡石通に下り、入り組んだ道を右往左往しながら、往時を偲ぶがごとく、紙谷川沿いに御土居を洛外から見上げるように歩いた。
紙谷川を御土居堀として利用した西端は、その高低差が都市城壁を造ろうとしていたことを教えている。中国の都をモデルにして、当時の集落の環濠城塞化の延長線上に考え出されたものであろう。
「しょうざん」の東の土手で御土居跡の土塁の斜面を見たあと、仏教大学北側の京都朝鮮第三初級学校の東隣「御土居史跡公園」にあるベンチで一休みすることにした。
御土居史跡公園の南側は御土居に設けられた切通しの中野道で、西の小道に面して茅葺の入母屋造りの鷹ヶ峯番小屋が設けられていたと案内看板に記されていた。
御土居の頂上に立ち見下ろすと、急斜面の下に民家が建ち、その先が紙屋川の谷へと繋がっていた。
数多くのベンチが土塁の上にあるその静かな場所は、時折通る風とともに悠久の時を感じさせてくれる。
御土居史跡公園は、昭和56年(1981年)に史跡公園として整備されたところである。
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