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御土居史跡公園をあとに千本通に出た。
千本通を北に源光庵の方へ上り坂を行くと、「御土居餅」の暖簾を掛ける都本舗光悦堂がある。いわゆる町のおまん屋はんである。
光悦堂は鷹峰旧土居町1番地で、2番地が史蹟御土居跡で、千本通を隔てて真ん前にある。
その南の方角には3番地の御土居史跡公園がある。
つまり、この史蹟御土居跡は、丁度北西の角にあたるところで、しょうざんの御土居の土手につながり、御土居史跡公園へと繋がっていたわけだ。
石碑の西側にフェンスで囲われた土塁がある。数年前に保存会の手で整備されたものである。
その土塁の東に延長戦を浮かべると、光悦堂は正に御土居の中に埋まることになる。
光悦堂の主らしき姿が見えた。白髪に白の割烹着を身に着けたその男に声をかけた。
「そうどす。お堀が玄琢のほう向いて・・・この坂道より北にあったんでしょうなぁ。なにせ随分と昔のことで、見たことおまへんのや。」
「この御土居の上で、前は有明さんがお食事を食べさせてはりましたところや。お店をどかせて、保存会の人らが、こうやって整備しやはりましたんや。ようなりましたわ・・・」と。
「名物に美味いものなし」、とはいうが、どうだろうかと思いながら、勿論、名物御土居餅を買った。名物とあるが、御土居餅があるとは今の今まで知らなかった。
御土居餅は、羽二重に赤エンドウ豆を練りこみ、漉し餡を包み、きな粉をふりかけた、あたかも小さな土塁にみせかけたように作られていた。
小豆にきな粉が乙なハーモニーで、羽二重と赤エンドウの舌触りとあいまって粋な味である。
さて、のんびりともしていられない。
まだ、御土居の全周22.5キロの半分も回れていないのである。千本通の坂を下り、更に西大路通を下り、辛うじて小山が残されている、わら天神の「史蹟御土居跡」(北区紫野西土居町)を経て、一路平野神社の鳥居前町の御土居跡に急いだ。
鳥居前町とあるが、西大路側の鳥居ではない。平野神社の東の鳥居が正面玄関である。その東が平野鳥居前町となる。
平野神社の鳥居の前と北野天満宮の北門前を結ぶ間に、紙屋川が流れている。
桜橋の東側の細い道を北へゆくと、整形された土塁に数体のお地蔵さんが祀られたところが、平野鳥居前町の史蹟御土居跡である。
大きな緑の土手を光背と見立て、鎮座する石像の前掛けの赤が印象に残る。このお地蔵さんは周辺の御土居から発掘されたものなのだろう。
発掘調査で御土居跡からお地蔵さんが幾つも見つかっているが、土塁を積むときに、地崩れからの防災と洛中の守りを祈り、秀吉が埋めさせたのだろうか。その理由は未だ謎のままである。
子供が亡くなると石彫りの地蔵を造り野辺に供養する習わしは空也上人(903〜972年)が始められて以来、後世の民衆に引き継がれてきたものである。
戦乱の世を経て天下統一されたとき、応仁の乱(1467年)以降荒れ果てた京の町は、その土塁に深い平穏への願いを込めていたのだろうか。
鳥居前町の御土居跡にフェンスはなく立入禁止の札もないので、御土居の土手を上がってみた。直下に道路があり、その先が深い谷になっていて、その下に紙屋川がある。川沿いをはじめ御土居跡周辺にはひしめくように民家が建ち並び、土塁は囲まれている。
往時を偲び、その高台から愛宕方面に目をやり、目を細めてみた。これでは洛中に、外敵も、洪水も押し寄せれる筈がない。
「洛中は秀吉さんが守ってくれはる」と、当時の京都人は思い納得したであろう。
桜橋から紙屋川を見下ろすと、難攻不落の城塞であることが更に解る。
桜橋の南は、北野天満宮の境内地の森が紙屋川(天神川)に沿って続き、北野天満宮の御土居の高さが良く分かるところである。菅原道真公がこよなく愛でられた梅と同様に紅葉などの樹木が、御土居一帯にはおよそ250本、樹齢400年の欅もあり、それを育てた往時の御土居の規模や面影を偲ぶことができる。更にその先の御土居内は北野梅苑となっている。
天神さんの境内の見晴台から御土居堀を見下ろすことできるが、梅苑公開などの春秋の公開時でないと、御土居堀に下りることはできない。
天神さんの御土居跡は、都市の発達をたどる重要な遺構として昭和40年(1965)に「史跡」に追加指定された。公開時には30mの急勾配がある御土居堀であった紙屋川(天神川)縁に是非下りられることをお奨めする。
紙屋川は現在の河川法では天神川となっているが、京都人にとっては、天神さんの南西の紙屋川町までは今でも紙屋川である。紙屋川町より南にあって天神川と呼んでいる。
かつて紙漉き場であった紙屋川が、見事な赤や黄に染まった木々の色を水面に映しだしているうちは、これからも紙屋川と呼び続けていて貰いたい。
天神さんの御土居掘は天神川ではなく、今も紙屋川と北野天満宮も記している。
その紙屋川に沿って、御土居は更に南に、洛中の西側の境界として、ほぼ一直線に続いていた。都市開発とともに取り壊されていった御土居は、あと一箇所史蹟に指定され御土居跡として残されているところがある。
西大路御池交差点の東北にあたる中京区西ノ京原町「市五郎大明神社(創祀年不詳)」のあるところだ。西の京御土居跡には市五郎大明神社が建っているというのが正しい表現なのだが、この民間信仰の対象があったからこそ、取り壊されずに御土居が残っているのである。
「猫を境内に捨てないで。捨てると必ずたたりがあります。」との札がかかっていたが、境内には猫が飼われていて、動物の臭気が蔓延し、鬱蒼とした樹木と相まって異界を思わせる不気味さを感じる。狛狐を伴うご神体の稲荷さんで、奉納されている鳥居などから篤い信者がうかがえるが、公開される由緒書や広報資料は見当たらない。
明治時代の取り壊しを逃れた西の京の御土居跡に創祀され、昭和12年に史蹟指定され保存されることになる貢献を果たしたご神体を祀った縁の「市五郎・国司・三徳」とは、どんな人物であったのだろうか。
他でも御土居周辺に明神さんが祀られていたが、御土居の森に住まう神霊にも興味が涌いてきた。
こうして、北野中学校の御土居跡を最後に、タクシーを使って、東寺、京都駅と、御土居の巡らされていたところを絵地図に沿って走ることで、御土居一周をひとまず終えた。
1591年1月から3月の僅か三ヶ月間で、全周22.5キロの土塁は築き上げられ、御土居濠は完成されたとの記録が残る。聚楽第の造営、寺町の創建などなどの工事も並行して急ピッチで行われていた頃である。
秀吉は諸大名に諸工事の割り当てを命じた筈である。各地から京にどれほどの人が流入し、どれほどの活気を帯びていたのかは、想像を絶するほどのものであったに違いない。
平安遷都を超える画期的な出来事で、京の歴史に残る唯一の大事業で、その京洛の活気は未来永劫有り得ないほどの時代を迎えていたのである。
京都は秀吉を忘れてはならない。
京都市埋蔵文化財研究所ホームページ
http://www.kyoto-arc.or.jp/
【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
千本通を北に源光庵の方へ上り坂を行くと、「御土居餅」の暖簾を掛ける都本舗光悦堂がある。いわゆる町のおまん屋はんである。
光悦堂は鷹峰旧土居町1番地で、2番地が史蹟御土居跡で、千本通を隔てて真ん前にある。
その南の方角には3番地の御土居史跡公園がある。
つまり、この史蹟御土居跡は、丁度北西の角にあたるところで、しょうざんの御土居の土手につながり、御土居史跡公園へと繋がっていたわけだ。
石碑の西側にフェンスで囲われた土塁がある。数年前に保存会の手で整備されたものである。
その土塁の東に延長戦を浮かべると、光悦堂は正に御土居の中に埋まることになる。
光悦堂の主らしき姿が見えた。白髪に白の割烹着を身に着けたその男に声をかけた。
「そうどす。お堀が玄琢のほう向いて・・・この坂道より北にあったんでしょうなぁ。なにせ随分と昔のことで、見たことおまへんのや。」
「この御土居の上で、前は有明さんがお食事を食べさせてはりましたところや。お店をどかせて、保存会の人らが、こうやって整備しやはりましたんや。ようなりましたわ・・・」と。
「名物に美味いものなし」、とはいうが、どうだろうかと思いながら、勿論、名物御土居餅を買った。名物とあるが、御土居餅があるとは今の今まで知らなかった。
御土居餅は、羽二重に赤エンドウ豆を練りこみ、漉し餡を包み、きな粉をふりかけた、あたかも小さな土塁にみせかけたように作られていた。
小豆にきな粉が乙なハーモニーで、羽二重と赤エンドウの舌触りとあいまって粋な味である。
さて、のんびりともしていられない。
まだ、御土居の全周22.5キロの半分も回れていないのである。千本通の坂を下り、更に西大路通を下り、辛うじて小山が残されている、わら天神の「史蹟御土居跡」(北区紫野西土居町)を経て、一路平野神社の鳥居前町の御土居跡に急いだ。
鳥居前町とあるが、西大路側の鳥居ではない。平野神社の東の鳥居が正面玄関である。その東が平野鳥居前町となる。
平野神社の鳥居の前と北野天満宮の北門前を結ぶ間に、紙屋川が流れている。
桜橋の東側の細い道を北へゆくと、整形された土塁に数体のお地蔵さんが祀られたところが、平野鳥居前町の史蹟御土居跡である。
大きな緑の土手を光背と見立て、鎮座する石像の前掛けの赤が印象に残る。このお地蔵さんは周辺の御土居から発掘されたものなのだろう。
発掘調査で御土居跡からお地蔵さんが幾つも見つかっているが、土塁を積むときに、地崩れからの防災と洛中の守りを祈り、秀吉が埋めさせたのだろうか。その理由は未だ謎のままである。
子供が亡くなると石彫りの地蔵を造り野辺に供養する習わしは空也上人(903〜972年)が始められて以来、後世の民衆に引き継がれてきたものである。
戦乱の世を経て天下統一されたとき、応仁の乱(1467年)以降荒れ果てた京の町は、その土塁に深い平穏への願いを込めていたのだろうか。
鳥居前町の御土居跡にフェンスはなく立入禁止の札もないので、御土居の土手を上がってみた。直下に道路があり、その先が深い谷になっていて、その下に紙屋川がある。川沿いをはじめ御土居跡周辺にはひしめくように民家が建ち並び、土塁は囲まれている。
往時を偲び、その高台から愛宕方面に目をやり、目を細めてみた。これでは洛中に、外敵も、洪水も押し寄せれる筈がない。
「洛中は秀吉さんが守ってくれはる」と、当時の京都人は思い納得したであろう。
桜橋から紙屋川を見下ろすと、難攻不落の城塞であることが更に解る。
桜橋の南は、北野天満宮の境内地の森が紙屋川(天神川)に沿って続き、北野天満宮の御土居の高さが良く分かるところである。菅原道真公がこよなく愛でられた梅と同様に紅葉などの樹木が、御土居一帯にはおよそ250本、樹齢400年の欅もあり、それを育てた往時の御土居の規模や面影を偲ぶことができる。更にその先の御土居内は北野梅苑となっている。
天神さんの境内の見晴台から御土居堀を見下ろすことできるが、梅苑公開などの春秋の公開時でないと、御土居堀に下りることはできない。
天神さんの御土居跡は、都市の発達をたどる重要な遺構として昭和40年(1965)に「史跡」に追加指定された。公開時には30mの急勾配がある御土居堀であった紙屋川(天神川)縁に是非下りられることをお奨めする。
紙屋川は現在の河川法では天神川となっているが、京都人にとっては、天神さんの南西の紙屋川町までは今でも紙屋川である。紙屋川町より南にあって天神川と呼んでいる。
かつて紙漉き場であった紙屋川が、見事な赤や黄に染まった木々の色を水面に映しだしているうちは、これからも紙屋川と呼び続けていて貰いたい。
天神さんの御土居掘は天神川ではなく、今も紙屋川と北野天満宮も記している。
その紙屋川に沿って、御土居は更に南に、洛中の西側の境界として、ほぼ一直線に続いていた。都市開発とともに取り壊されていった御土居は、あと一箇所史蹟に指定され御土居跡として残されているところがある。
西大路御池交差点の東北にあたる中京区西ノ京原町「市五郎大明神社(創祀年不詳)」のあるところだ。西の京御土居跡には市五郎大明神社が建っているというのが正しい表現なのだが、この民間信仰の対象があったからこそ、取り壊されずに御土居が残っているのである。
「猫を境内に捨てないで。捨てると必ずたたりがあります。」との札がかかっていたが、境内には猫が飼われていて、動物の臭気が蔓延し、鬱蒼とした樹木と相まって異界を思わせる不気味さを感じる。狛狐を伴うご神体の稲荷さんで、奉納されている鳥居などから篤い信者がうかがえるが、公開される由緒書や広報資料は見当たらない。
明治時代の取り壊しを逃れた西の京の御土居跡に創祀され、昭和12年に史蹟指定され保存されることになる貢献を果たしたご神体を祀った縁の「市五郎・国司・三徳」とは、どんな人物であったのだろうか。
他でも御土居周辺に明神さんが祀られていたが、御土居の森に住まう神霊にも興味が涌いてきた。
こうして、北野中学校の御土居跡を最後に、タクシーを使って、東寺、京都駅と、御土居の巡らされていたところを絵地図に沿って走ることで、御土居一周をひとまず終えた。
1591年1月から3月の僅か三ヶ月間で、全周22.5キロの土塁は築き上げられ、御土居濠は完成されたとの記録が残る。聚楽第の造営、寺町の創建などなどの工事も並行して急ピッチで行われていた頃である。
秀吉は諸大名に諸工事の割り当てを命じた筈である。各地から京にどれほどの人が流入し、どれほどの活気を帯びていたのかは、想像を絶するほどのものであったに違いない。
平安遷都を超える画期的な出来事で、京の歴史に残る唯一の大事業で、その京洛の活気は未来永劫有り得ないほどの時代を迎えていたのである。
京都は秀吉を忘れてはならない。
京都市埋蔵文化財研究所ホームページ
http://www.kyoto-arc.or.jp/
【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
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