京都CF誌2006年5月号の特集で、「京都の粉もん こないなもん」と冠してお好み焼などが紹介されている。そこでは、ラーメン、カレー、肉といわれる三大国民食京都地図に続く、四大国民食と位置づけている。
粉もんといえば、お好み焼、明石焼、たこ焼、もんじゃ焼などがある。
京都のお好み焼で連想するのは、べた焼、マンボ焼、ねぎ焼、壱銭洋食などである。
とかく、京料理に代表される薄味とは程遠い、ソース味の粉もんのどこに京都があるのだろうか。
京野菜の九条ねぎが盛られたり、練られたりするからでは、その答えはいただけない。
確かにその所為で、一段とお好み焼は美味しくいただけるのに間違いはないが。
ずばり、「麩焼煎餅」を源流に生まれでた現代の庶民食であるという仮説はどうか。
千利休考案の「麩の焼」が登場するのは、豊臣秀吉・毛利輝元を招いた茶会で振る舞われた懐石膳であるという。その菓子ものは、うどん粉を水と酒で練り、煎り鍋に薄くのばして焼く。固まる頃に、山椒入りの甘味噌を塗って巻きこむ。一センチほどの幅に包丁し、切り口を見せて盛る、と「利休百会記」に記されていると聞く。
この麩焼煎餅菓子のアイデアが真似て作られ、関東大震災以降には、東京下町の駄菓子屋に根付いた別名「水焼き」と呼ばれるものが「もんじゃ焼」である。
子供が持ち歩けない「もんじゃ焼」を、京都では「べた焼」、大阪、神戸、広島では「一銭洋食」と呼ばれ、持ち歩きできるほどの焼きが入ったものが、「どんどん焼」となって全国に広まったのだ。
小麦粉を水で溶き、クレープ状に薄く焼き、パリッとした生地の「どんどん焼」にソースを塗ったものは、菓子というより洋食風の新鮮さがあったようだ。
昭和初期には「一文菓子」が 「一銭菓子」と改名したことに習い、それは「一銭洋食」と先駆的に呼ばれるようになった。
ネギと粉鰹とソースの焼ける臭いにハイカラさを感じたと、父の話によく出てくる。
うどん屋が街角にはたくさんあったが、「一銭洋食」は駄菓子屋で焼かれ売られていた。
その当時のものを縄手四条の「壱銭洋食お古乃美焼」では、今もいただくことができる。
さて、「一銭洋食」は子供向けのもので、当初大人は見向きもしなかったが、敗戦後の焼け野原における空腹にはどうも勝てなかったようだ。
日本国中至る所、米食はあたるはずもなく、空腹を満たす食料はなかったからだ。
米軍から手に入ったメリケン粉に、いち早く目をつけた者たちは、「一銭洋食」に少々の豚肉をのせ、「お好み焼」として闇市の屋台などで売り出した。
そして、非常食として生まれ変わったお好み焼の、その歴史が始まったのである。
京都で、それは「べた焼」と呼ばれ、水溶きしたメリケン粉を生地に薄く延ばし、その上に引き削り粉、天かすをのせ、更にキャベツ、青ねぎをのせ、生地を大量にかけ、裏返にして焼かれていた。
そして、敗戦5年後辺りになって、玉子や牛スジ、細麺が使われだした。
その京都のお好み焼は「まんぼ焼」と呼ばれ、「まんぼ焼」の発祥地で、現在も営業を続けている「やまもと」は、京都駅東トワイライトゾーンにある。
かくして昭和30年代に入り、非常食の色は消え、お好み焼は国民食として圧倒的な支持を得るに至った。京都のお好み焼きの名店の数々は京都CF誌2006年5月号でご覧いただきたい。
米文化の長い歴史の中、小麦文化の一旦を取り入れたのは京都の地であったのだ。
壱銭洋食 お古乃美焼
http://www.issen-yosyoku.co.jp/i00/index.html
日本全国のご当地「焼」辞典 (おたふくソース)
http://www.otafuku.co.jp/column/gotohchi/
嗚呼 お好み焼き (オリバーソース)
http://www.oliversauce.com/okonomi1.htm
【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
粉もんといえば、お好み焼、明石焼、たこ焼、もんじゃ焼などがある。
京都のお好み焼で連想するのは、べた焼、マンボ焼、ねぎ焼、壱銭洋食などである。
とかく、京料理に代表される薄味とは程遠い、ソース味の粉もんのどこに京都があるのだろうか。
京野菜の九条ねぎが盛られたり、練られたりするからでは、その答えはいただけない。
確かにその所為で、一段とお好み焼は美味しくいただけるのに間違いはないが。
ずばり、「麩焼煎餅」を源流に生まれでた現代の庶民食であるという仮説はどうか。
千利休考案の「麩の焼」が登場するのは、豊臣秀吉・毛利輝元を招いた茶会で振る舞われた懐石膳であるという。その菓子ものは、うどん粉を水と酒で練り、煎り鍋に薄くのばして焼く。固まる頃に、山椒入りの甘味噌を塗って巻きこむ。一センチほどの幅に包丁し、切り口を見せて盛る、と「利休百会記」に記されていると聞く。
この麩焼煎餅菓子のアイデアが真似て作られ、関東大震災以降には、東京下町の駄菓子屋に根付いた別名「水焼き」と呼ばれるものが「もんじゃ焼」である。
子供が持ち歩けない「もんじゃ焼」を、京都では「べた焼」、大阪、神戸、広島では「一銭洋食」と呼ばれ、持ち歩きできるほどの焼きが入ったものが、「どんどん焼」となって全国に広まったのだ。
小麦粉を水で溶き、クレープ状に薄く焼き、パリッとした生地の「どんどん焼」にソースを塗ったものは、菓子というより洋食風の新鮮さがあったようだ。
昭和初期には「一文菓子」が 「一銭菓子」と改名したことに習い、それは「一銭洋食」と先駆的に呼ばれるようになった。
ネギと粉鰹とソースの焼ける臭いにハイカラさを感じたと、父の話によく出てくる。
うどん屋が街角にはたくさんあったが、「一銭洋食」は駄菓子屋で焼かれ売られていた。
その当時のものを縄手四条の「壱銭洋食お古乃美焼」では、今もいただくことができる。
さて、「一銭洋食」は子供向けのもので、当初大人は見向きもしなかったが、敗戦後の焼け野原における空腹にはどうも勝てなかったようだ。
日本国中至る所、米食はあたるはずもなく、空腹を満たす食料はなかったからだ。
米軍から手に入ったメリケン粉に、いち早く目をつけた者たちは、「一銭洋食」に少々の豚肉をのせ、「お好み焼」として闇市の屋台などで売り出した。
そして、非常食として生まれ変わったお好み焼の、その歴史が始まったのである。
京都で、それは「べた焼」と呼ばれ、水溶きしたメリケン粉を生地に薄く延ばし、その上に引き削り粉、天かすをのせ、更にキャベツ、青ねぎをのせ、生地を大量にかけ、裏返にして焼かれていた。
そして、敗戦5年後辺りになって、玉子や牛スジ、細麺が使われだした。
その京都のお好み焼は「まんぼ焼」と呼ばれ、「まんぼ焼」の発祥地で、現在も営業を続けている「やまもと」は、京都駅東トワイライトゾーンにある。
かくして昭和30年代に入り、非常食の色は消え、お好み焼は国民食として圧倒的な支持を得るに至った。京都のお好み焼きの名店の数々は京都CF誌2006年5月号でご覧いただきたい。
米文化の長い歴史の中、小麦文化の一旦を取り入れたのは京都の地であったのだ。
壱銭洋食 お古乃美焼
http://www.issen-yosyoku.co.jp/i00/index.html
日本全国のご当地「焼」辞典 (おたふくソース)
http://www.otafuku.co.jp/column/gotohchi/
嗚呼 お好み焼き (オリバーソース)
http://www.oliversauce.com/okonomi1.htm
【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
5003-060418-9/15