祇園祭の伝統と創生と再生(後編)
   〜後の祭りは復活するか?〜

【言っておきたい古都がある・7】 by 谷口 年史

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 祇園祭といえば7月17日の山鉾巡行であるが、現存の山鉾32基は昭和40年(1965)までは7月17日の前祭に23基、24日の後祭に9基が別々のルートを進んでいたのである。前祭のルートは、

昭和30年まで・四条通東進⇒寺町南下⇒松原通西進
昭和35年まで・四条通東進⇒寺町北上⇒御池通西進
昭和36年から・四条通東進⇒河原町北上⇒御池通西進(現行のコース)

という変遷を辿っている。

 後祭は三条烏丸から東進し寺町通を南下して四条通を西に進んで四条新町までだった。

 巡行が2回に分けられていたのは、祇園祭を司る八坂神社の御輿が四条寺町の御旅所へ向かう17日の「神幸祭」と御旅所から神社へ戻る24日の「還幸祭」がそれぞれの日に行われ山鉾巡行は「露払い」の役割を担っていたから。
 それがいつの間にか主役のお神輿よりも「露払い」のほうが目立って有名になってしまったのである。

 そこで観光客を増やしたい京都市が一本化を求め、昭和41年(1966)から17日に山鉾が一斉に巡る今の形になった。もっとも、一本化に関しては高度成長期にあまり長く公道を祭で占拠してほしくないという経済界の意向や、事故に繋がりかねない状況はなるべく短くしたいという警察の希望もあったであろうことは想像できる。

 一本化が決まった年、後祭に出ていた鈴鹿山は抗議して巡行には参加せず、山鉾を出す各町でも賛否が分かれたという。

 京都市の思惑どおり、山鉾巡行は祇園祭の「顔」として観光客を集めた。反面、祇園祭の中の行事のひとつである山鉾巡行だけが祇園祭であるかのような誤解を広めてしまったのも事実。

 だが 昨夏に祇園祭山鉾連合会では「本来、巡行は神輿と一体の行事である。このことを考えれば後祭を復活すべきでないか」との意見が出たのである。

 さらに観光化に主眼を置いた祭りには弊害も出始めていた。

 32基の巡行が終わるのに4時間以上かかり終盤は観覧席に空きが目立ってしまう。
 また数十万人の観光客が17日に集中し混雑が激しすぎる。

 こうした事情も挙げて各町に議論を促したところ大きな異論は出ず復活へ向けて本腰を入れることが決まった。

 この動きを後押ししているのが、江戸時代まで後祭の巡行で最後を飾ったものの元治元年(1864)の禁門の変で焼失した大船鉾を復活させ、平成26年の巡行復帰を目指そうという動きである。

 大船鉾保存会(京都市下京区新町通四条下ル)は今年の山鉾巡行に「唐櫃(からびつ)巡行」の形で参加する。神面を木製の唐櫃に納め、担いで巡行に参加するのである。明治3年(1870)に唐櫃巡行して以来、142年ぶりの復帰となる。大火で焼失した山鉾の多くが唐櫃巡行の数年後に再建を果たしており、伝統ある鉾の完全復興へ機運が高まっている。

 昨年まで巡行の一番最後は南観音山であった。今年はこの唐櫃巡行が最後のため、クジ取らずの南観音山は最後から二番目になるのかというと、そうではなく最後から五番目。何故かというと祇園囃子の調性(西洋音楽で言えばハ長調とかニ短調とかいうやつ)の関係で位置をもう少し前にしたという。
 我々が何の気なしに聞いている祇園囃子にもハ長調とかニ短調とかの違いがあるのである。

 連合会は後祭の巡行ルートの三条通で障害物となる電線や街灯の調査を始めた。警備にあたる京都府警とも調整し大船鉾の復活に合わせて後祭を再興したいと考えている。

 目論見どおり平成26年に実現するかどうかは分らないが、後祭が復活するのは確実だと思う。なぜならば、これは町衆の側から出てきた意見だからである。実際に時間と労力を負担して祭に奉仕している人たちの意思というのは重い。

 面白いのは数年前、観光客の数を増す目的で京都市が「巡行を日曜日に統一して欲しい」という申し入れをしてきたことがある。もちろん、山鉾連合会はこれをお断りした。祭の本旨から言えば当然だろう。
 それでも連合会の意思とは関係なく自分たちの思惑通りにしたいという根性があるのか、「有識者」の口を通して「今伝統と言われているものは必ずしもずっとそうだったわけではない」という「宣伝」をたまにやっている。巡行に関して言えば

「伝統と言いましてもね〜、山鉾の巡行が11月に行われていたこともあるんですよ〜〜、ご存知でしたかあ〜〜〜」

というやつである。確かに、山鉾巡行が11月に行われた記録はある。しかし有識者にはお気の毒だがそれは巡行の日を見直す理由にはならない。「巡行が11月に行われていた」という事実を指摘していながら「何故そうなったのか」という理由を隠しているからである。(この辺の詳細は来週書きます)

 伝統というものはひとつのものを墨守しているわけではない。何百年もの間にいくつもの変化を繰り返しつつ時代の流れを乗り切ってきたのである。核になる精神はそのままに、それまでのものが姿を消したり新たなものが加わったり、姿を消したものがまた現れたり、結構変わっているのである。
 ただ、その変化は観客の動員を増やしたいとか、何かの記念に将来に残る話題を作ろうというあざとい理由ではなく、祭の中から生まれてくるものである。

 平安時代から続くと言われている祇園祭も、応仁の乱後の復興で転機となる創生がなされ、今また行政の都合で廃止された後祭が復活の兆しを見せている。伝統は創生と再生を交えながら続いていくのである。

 最後にひとつ。「祇園祭の後祭は規模も小さく盛り上がらないから、時機に遅れて悔しい思いをすることを後の祭りと言う」との俗説があるがそれは間違い。

 本来は祭り一般のことで、「祭が済んだ後に山車(だし)を出してきた」というのが由来である。つまり「祭が済んだ後にまた祭をする気か」ということで、「手遅れ」という意味になる。
 古事諺辞典では「祭りの翌日である祭礼のことで、お供え物を下げて飲食する習慣があったことから、用済みになった山車や祭事用具は顧みられないことから物事が時機を外して手遅れなこと、効を失うことをいう」と解説している。
 さらにこの「祭り」というのは「祖先の祭」つまり法事のことで、「亡くなった後に盛大な儀式をしても仕方がない」というのが語源だとするのも有力である。「生きているうちにもっと大事にしてあげればよかったのに」という意味かな。

 祇園祭の後祭は「手遅れ」ではない。24日の「還幸祭」になくてはならない巡行なのである。


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