京阪電車が比叡山1dayチケットや大原1dayチケットのような「伏見・宇治1dayチケット」を作るというので期待していた。自分の地元が賑わうのは良いことである。
ところが出来たのは「宇治・伏見1dayチケット」で、何と伏見エリアは中書島から丹波橋までしかない。これはね、やっぱり、せめて伏見稲荷までは行ける様にしてもらわないと。
まあ事実上の宇治1dayチケットだったわけだ。伏見といっても現状でこのチケットが売れても儲かるのは寺田屋と大倉記念館ぐらいのものだろう。
しかし嘆いていても仕方がない。来年度から京阪電車にこのチケットの伏見エリアを拡大させるために伏見の魅力を発信しなければならない。
そこで今回は、江戸時代というのは江戸で始まったわけではないし、江戸で終ったわけでもないという話である。
伏見という土地は古くは万葉集にも詠まれている。さらに平安時代になると清少納言の『枕草子』の「里つくし」のなかに伏見が挙げられている。
しかし伏見が全国ネットの有名な土地になったのはやはり豊臣秀吉が伏見城を造ってからだろう。
かつての伏見城の周りには今でも水野左近、松平筑前といった大名の名前がそのまま地名になって残っている。歴史そのものである。
桃山時代が終り江戸時代になっても、三大将軍家光までは伏見城で将軍宣下をしていた、つまり将軍の就任式を伏見でやっていたのである。京都町奉行所とは別に伏見奉行所があったのだから、今と違って伏見は京都ではなかったということ。
実際、東山三十六峰というのは比叡山から稲荷山までであるから、それより南の伏見は京都ではなかったことがここからも分かる。
しかも伏見は昭和4年から6年まで、僅か2年間だけであるが「伏見市」だったのである。
明治22年に京都府紀伊郡伏見町となり、昭和4年には晴れて伏見市になったのだが、2年後に京都市に飲み込まれてしまった。
それはそれとして、伏見港という川の拠点は京都、宇治、大坂、果ては奈良をも結ぶ流通の中心地であった。
あるガイドブックに「伏見城は秀吉が隠居所として建てた」と書いているものがあったが、それは間違い。秀吉は隠居なんてするつもりはなかった。伏見を物流の中心にして日本経済を牽引するつもりだったのである。まだまだやる気満々だったのだ。
江戸時代の初期は伏見で貨幣の鋳造もやっていた。「銀座」という地名になって残っている。東京にあるのだけが銀座ではないのだ。
貨幣の鋳造が他所に移っても伏見には両替商が多く存在した。両替商というのは現在の銀行と同じである。銀行がたくさんあったということは、一定規模以上の経済活動が行われていたということである。
もっともその後、経済の中心は大坂に、政治の中心は江戸に移って伏見は取り残されることになったが、ここで落ち込まなかったのである。経済的に巻き返しを図った。
水運の拠点として船宿が発達する。人、物、金が動くのでそれを目当てに歓楽街や遊郭が出来る。もちろん造り酒屋を忘れてはならない。
ここで象徴的な話をご披露しよう。
享保2年(1717)伏見の京町8丁目に大文字屋という呉服屋がオープンした。それまでかつぎ呉服の行商をしていた彦右衛門さんという人が念願かなって自分の店を持ったのである。
この彦右衛門さん、商人としては辣腕で、伏見のほかに京都、大坂と次々に店舗を拡大し、ついに江戸店持ち京商人に出世したのである。
ところが、こうなると具合の悪いことが起きた。「大文字屋」という屋号はありきたりで、他にもいろいろな「大文字屋」が存在したのである。質屋だとか両替屋だとか、小間物屋だとか。
これでは彦右衛門さんがどんなに自分の力で店舗を広げても同じ一つの店だとは誰も思ってくれないのである。
これではいけない!
そこで彦右衛門さんは今までにない全く新しい屋号をつけようと考えた。
現代でも十数年前にコーポレイティッド・アイデンティティというのが流行ったが、江戸時代の半ばで同じ考え方をした人がいたのである。
さあ、そこで彦右衛門さん、屋号を変えた。ということは、今で言う社名変更に踏み切ったわけだ。
それが享保12年(1727)
大文字屋あらため大丸呉服店。
今でもあるデパートの大丸というのは伏見の京町8丁目が発祥の地だったのである。
その後、彦右衛門さんは幕府から名字帯刀を許されて下村正啓という名前になったが、これは役所とか侍相手のときだけで、庶民相手の商売ではずつと大丸屋彦右衛門で通しておられたそうである。
これが江戸時代中期で、いよいよ幕末である。新撰組などが登場する有名な時代だが、ちなみに新撰組のあの有名な山形模様のユニフォームは大丸呉服店であつらえたものである。
それはそれとして、いよいよ鳥羽伏見の戦いである。
慶応4年(1868)1月3日、御香宮東方の丘から伏見奉行所に向けて大砲が発射され、本格的な戦闘が始まった。そしてご存知のとおり、この戦いで幕府側が負けて明治維新となり、ついに江戸時代は終ったのである。
ここで思い出していただきたい。
江戸時代初期、三代将軍家光までは伏見城で将軍宣下をしていた。そして幕末、鳥羽伏見の戦いで江戸時代に幕が下りた。ということは、
江戸時代というのは伏見で始まって伏見で終ったのである。
これは意外と見過ごされている事実なので、是非覚えておいて貰いたい。
ところが出来たのは「宇治・伏見1dayチケット」で、何と伏見エリアは中書島から丹波橋までしかない。これはね、やっぱり、せめて伏見稲荷までは行ける様にしてもらわないと。
まあ事実上の宇治1dayチケットだったわけだ。伏見といっても現状でこのチケットが売れても儲かるのは寺田屋と大倉記念館ぐらいのものだろう。
しかし嘆いていても仕方がない。来年度から京阪電車にこのチケットの伏見エリアを拡大させるために伏見の魅力を発信しなければならない。
そこで今回は、江戸時代というのは江戸で始まったわけではないし、江戸で終ったわけでもないという話である。
伏見という土地は古くは万葉集にも詠まれている。さらに平安時代になると清少納言の『枕草子』の「里つくし」のなかに伏見が挙げられている。
しかし伏見が全国ネットの有名な土地になったのはやはり豊臣秀吉が伏見城を造ってからだろう。
かつての伏見城の周りには今でも水野左近、松平筑前といった大名の名前がそのまま地名になって残っている。歴史そのものである。
桃山時代が終り江戸時代になっても、三大将軍家光までは伏見城で将軍宣下をしていた、つまり将軍の就任式を伏見でやっていたのである。京都町奉行所とは別に伏見奉行所があったのだから、今と違って伏見は京都ではなかったということ。
実際、東山三十六峰というのは比叡山から稲荷山までであるから、それより南の伏見は京都ではなかったことがここからも分かる。
しかも伏見は昭和4年から6年まで、僅か2年間だけであるが「伏見市」だったのである。
明治22年に京都府紀伊郡伏見町となり、昭和4年には晴れて伏見市になったのだが、2年後に京都市に飲み込まれてしまった。
それはそれとして、伏見港という川の拠点は京都、宇治、大坂、果ては奈良をも結ぶ流通の中心地であった。
あるガイドブックに「伏見城は秀吉が隠居所として建てた」と書いているものがあったが、それは間違い。秀吉は隠居なんてするつもりはなかった。伏見を物流の中心にして日本経済を牽引するつもりだったのである。まだまだやる気満々だったのだ。
江戸時代の初期は伏見で貨幣の鋳造もやっていた。「銀座」という地名になって残っている。東京にあるのだけが銀座ではないのだ。
貨幣の鋳造が他所に移っても伏見には両替商が多く存在した。両替商というのは現在の銀行と同じである。銀行がたくさんあったということは、一定規模以上の経済活動が行われていたということである。
もっともその後、経済の中心は大坂に、政治の中心は江戸に移って伏見は取り残されることになったが、ここで落ち込まなかったのである。経済的に巻き返しを図った。
水運の拠点として船宿が発達する。人、物、金が動くのでそれを目当てに歓楽街や遊郭が出来る。もちろん造り酒屋を忘れてはならない。
ここで象徴的な話をご披露しよう。
享保2年(1717)伏見の京町8丁目に大文字屋という呉服屋がオープンした。それまでかつぎ呉服の行商をしていた彦右衛門さんという人が念願かなって自分の店を持ったのである。
この彦右衛門さん、商人としては辣腕で、伏見のほかに京都、大坂と次々に店舗を拡大し、ついに江戸店持ち京商人に出世したのである。
ところが、こうなると具合の悪いことが起きた。「大文字屋」という屋号はありきたりで、他にもいろいろな「大文字屋」が存在したのである。質屋だとか両替屋だとか、小間物屋だとか。
これでは彦右衛門さんがどんなに自分の力で店舗を広げても同じ一つの店だとは誰も思ってくれないのである。
これではいけない!
そこで彦右衛門さんは今までにない全く新しい屋号をつけようと考えた。
現代でも十数年前にコーポレイティッド・アイデンティティというのが流行ったが、江戸時代の半ばで同じ考え方をした人がいたのである。
さあ、そこで彦右衛門さん、屋号を変えた。ということは、今で言う社名変更に踏み切ったわけだ。
それが享保12年(1727)
大文字屋あらため大丸呉服店。
今でもあるデパートの大丸というのは伏見の京町8丁目が発祥の地だったのである。
その後、彦右衛門さんは幕府から名字帯刀を許されて下村正啓という名前になったが、これは役所とか侍相手のときだけで、庶民相手の商売ではずつと大丸屋彦右衛門で通しておられたそうである。
これが江戸時代中期で、いよいよ幕末である。新撰組などが登場する有名な時代だが、ちなみに新撰組のあの有名な山形模様のユニフォームは大丸呉服店であつらえたものである。
それはそれとして、いよいよ鳥羽伏見の戦いである。
慶応4年(1868)1月3日、御香宮東方の丘から伏見奉行所に向けて大砲が発射され、本格的な戦闘が始まった。そしてご存知のとおり、この戦いで幕府側が負けて明治維新となり、ついに江戸時代は終ったのである。
ここで思い出していただきたい。
江戸時代初期、三代将軍家光までは伏見城で将軍宣下をしていた。そして幕末、鳥羽伏見の戦いで江戸時代に幕が下りた。ということは、
江戸時代というのは伏見で始まって伏見で終ったのである。
これは意外と見過ごされている事実なので、是非覚えておいて貰いたい。
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