さて、豊臣秀吉が造った初代の京都大仏は慶長元年(1596)の京都大地震で大仏殿もろとも倒壊してしまった。方広寺そのものが崩壊したのだが、何と千手堂と改名されていた三十三間堂は残った。
普通なら、秀吉の死とともに京都の大仏も消滅しただろう。
だが、歴史は京都の大仏を徒花(あだばな)で終らせはしなかった。
京都大仏の再建を見ることなく死んだ秀吉の遺志を継いで息子の秀頼が大仏の建立を開始したのである。
豊臣家の意地と財力であろうか。はたまた震災後の復興の象徴として大仏様が待望されたのであろうか。
慶長大地震で被災した京都の町を再生する槌音とともに、京都の大仏の再建も進んでいた。
ところが、その2代目の大仏なののだが、慶長7年(1602)12月4日、何と創っている最中に失火により燃えてしまったのだ。
この「失火」というのが、鋳造に使うドロドロに溶けた金属をトンチンカンな穴に注いでしまった事故によるものだという。とんだ災難である。
2代目の大仏はデビュー前に無くなってしまったのであった。
この事故に関して「徳川の息のかかった奴がわざとやったのではないか」と言う人がいた。さて、どうだろうか。
関が原では勝ったとはいえ、まだまだ豊臣シンパの大名もたくさんいたのに、そんな露骨なことをするかなあ、という気もする。私は普通の事故だっただろうと思っている。
もちろん、秀頼はこれにもめげず、事業を再開した。3代目の大仏の建立に取り掛かったのである。
そしてこの再建事業にはオマケがついた。
有名な角倉了以という商人がこの大仏再建事業のための物資を運ぶ運河として高瀬川を開削したのである。
物流の動脈としての高瀬川は大正10年(1921)にその役割を終えたが、いまも観賞用河川として残っている。大仏再建事業が無ければ高瀬川も無かったかもしれない。そうなれば森鴎外は「高瀬舟」を書けなかっただろう。
何はともあれ、豊臣秀頼は見事に3代目の大仏を完成させた。
ところが、ここでとんでもない出来事が起きたのである。
京都の大仏は無事に完成したのだが、豊臣秀頼は同時に方広寺のために巨大な梵鐘も作った。
ところがこの梵鐘に書いてあった「国家安康 君臣豊楽」の文字が原因で徳川家康にいちゃもんをつけられ、大坂の陣になってしまったのである。
その結果、ご存知の通り、豊臣家は滅んだわけだ。
京都のの大仏様は残ったが、豊臣家のほうがなくなってしまった。とことん運の無い大仏様ですな。
さて、豊臣家は滅んでも、大仏様は残り人々の信仰を集めていた。ところが、またもや災難が降りかかる。
どんな災難かはまた来週。
普通なら、秀吉の死とともに京都の大仏も消滅しただろう。
だが、歴史は京都の大仏を徒花(あだばな)で終らせはしなかった。
京都大仏の再建を見ることなく死んだ秀吉の遺志を継いで息子の秀頼が大仏の建立を開始したのである。
豊臣家の意地と財力であろうか。はたまた震災後の復興の象徴として大仏様が待望されたのであろうか。
慶長大地震で被災した京都の町を再生する槌音とともに、京都の大仏の再建も進んでいた。
ところが、その2代目の大仏なののだが、慶長7年(1602)12月4日、何と創っている最中に失火により燃えてしまったのだ。
この「失火」というのが、鋳造に使うドロドロに溶けた金属をトンチンカンな穴に注いでしまった事故によるものだという。とんだ災難である。
2代目の大仏はデビュー前に無くなってしまったのであった。
この事故に関して「徳川の息のかかった奴がわざとやったのではないか」と言う人がいた。さて、どうだろうか。
関が原では勝ったとはいえ、まだまだ豊臣シンパの大名もたくさんいたのに、そんな露骨なことをするかなあ、という気もする。私は普通の事故だっただろうと思っている。
もちろん、秀頼はこれにもめげず、事業を再開した。3代目の大仏の建立に取り掛かったのである。
そしてこの再建事業にはオマケがついた。
有名な角倉了以という商人がこの大仏再建事業のための物資を運ぶ運河として高瀬川を開削したのである。
物流の動脈としての高瀬川は大正10年(1921)にその役割を終えたが、いまも観賞用河川として残っている。大仏再建事業が無ければ高瀬川も無かったかもしれない。そうなれば森鴎外は「高瀬舟」を書けなかっただろう。
何はともあれ、豊臣秀頼は見事に3代目の大仏を完成させた。
ところが、ここでとんでもない出来事が起きたのである。
京都の大仏は無事に完成したのだが、豊臣秀頼は同時に方広寺のために巨大な梵鐘も作った。
ところがこの梵鐘に書いてあった「国家安康 君臣豊楽」の文字が原因で徳川家康にいちゃもんをつけられ、大坂の陣になってしまったのである。
その結果、ご存知の通り、豊臣家は滅んだわけだ。
京都のの大仏様は残ったが、豊臣家のほうがなくなってしまった。とことん運の無い大仏様ですな。
さて、豊臣家は滅んでも、大仏様は残り人々の信仰を集めていた。ところが、またもや災難が降りかかる。
どんな災難かはまた来週。
5483-241016-
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