ご存知のように本願寺は東西に分かれていますが、どうしてこうなったかというお話。
まず基本的に、西本願寺は豊臣秀吉が創りました。そして東本願寺を創ったのは徳川家康です。ただ、厳密に言うと秀吉が創ったのは「本願寺」であって「西本願寺」ではありません。その時はまだ分裂していないわけですから。現在でも何の注釈も無く「本願寺」と言えばそれは「西」を指します。宗派としても「西」が「本願寺派」で「東」は「大谷派」です。
もう少し厳密に言うと、我々は簡単に「西本願寺」「東本願寺」と気安く言いますけど、実は現在、東側に「本願寺」というお寺は無いのです。正しくは「真宗本廟」という。ですから「西本願寺と東本願寺」があるのではなく、「本願寺と真宗本廟」があるのです。ところが、「西本願寺と東本願寺」という俗称がすっかり定着して、なまじ「真宗本廟」なんて言ったりしたら誰にも分からない。
もっとも、昭和62年までは東西とも本願寺を名乗ってましたから「西本願寺」「東本願寺」という区別に必然性はありました。
さて、西本願寺を創ったのは豊臣秀吉で東本願寺を創ったのは徳川家康であるというのを押えたところで、話が織田信長による大坂石山本願寺攻略に飛びます。
信長は何故そんなことをしたのか?
その当事、天下を取りたい者にとって重要な課題のひとつは社会的な影響力の大きい宗教勢力をどのように取り扱うか、ということでした。その課題に信長の出した答は「叩き潰す」というのもだったのです。ご存知のように信長は比叡山延暦寺も焼き討ちにしています。いちおう首尾一貫していると言っていいでしょう。ただ、「織田信長による大坂石山本願寺攻略」と一口で言ってしまえば簡単ですが、実際は元亀元年(1570)から天正8年(1580)までという、丸10年にわたる大作戦だったのです。宗教勢力相手に戦うのはそれほど大変だったということです。
石山本願寺は防戦虚しく信長に破れ、法主・顕如をはじめ浄土真宗の面々は紀州に流れて不遇を囲っていました。
そこへ、豊臣秀吉が天下を取ってから、突如として「お寺を潰された真宗の皆さんがお可愛そうなので私がお寺をお建ていたしましょう」と申し出たのです。もちろん、秀吉は本当に顕如はじめ真宗のメンバーが可愛そうだと思ったわけではありません。では何故、新しい寺を建てるなどと言い出したのか?
信長に本拠地を潰されたとはいえ、まだまだ浄土真宗の社会的影響力は大きかったということです。そこで秀吉の考えた対処法は信長とは正反対。懐柔策に出たわけです。
「まあ、今までは色々ありましたけど、これからは仲良くしましょうよ」ということですね。
つまり秀吉という人は「敵に回して怖い相手ならば、見方に付ければよいではないか」という発想の出来る人だったのです。
こうして天正19年(1591年)に秀吉から現在地を寄進されて本願寺となり、東西の分裂以後は「西本願寺」と呼ばれるようになりました。
で、当たり前ならこれで「めでたし、めでたし」になるはずなのですが、ご存知の通り、現在本願寺は東西に分かれています。一体何があったのか?
秀吉に新しいお寺を建ててもらった浄土真宗の面々は顕如の死後、派閥争いを起こします。当たり前なら大坂石山本願寺攻防戦を戦った功労者である教如が後継者になるはずなのですが、ここで弟の准如を後継者にしようという一派が現れて教如が敗れたのです。この勝敗に関しては秀吉が「顕如の遺言」を持ち出して裁定をしたのですが、その遺言書というのがどうも胡散臭い。「武闘派」教如を排斥したいという秀吉の意図が見え隠れします。
しかし、この辺りが面白いもので、信長に本拠地を潰されて紀州で不遇を囲っていた時(貧乏だったのではないかと思います)はみんな仲良く団結していたのです。それが秀吉さんに大きなお寺を建ててもらって、生活が楽になったとたんに派閥争い。まあ、現代でも似たような話はあるでしょう。
さて、教如一派も内心では不満があるものの、お寺を追い出されたら行くところがありませんから仕方なく准如一派に従っていた。ところが、関が原の合戦が終って2年後の慶長7年(1602)、今度は徳川家康が「無理矢理隠居させられた教如様がお可愛そうなので私がお寺をお建て致しましょう」と言って建てたのが東本願寺です。もちろん、家康も本気で教如が可愛そうなどと思っていたわけではありません。では、どのような意図があったのか。
家康にしてみれば関が原では勝ちました。しかし豊臣家はまだ存在し、豊臣シンパの大名もたくさんいます。この状況で家康にとって一番怖いのは、豊臣家が本願寺と手を組んで共同作戦で徳川に対抗してくることです。家康にとって一向一揆の凄さは忘れようも無かったはずですね。
そこで家康が考えたのは、「本願寺は内部で二派に別れている。ならばこれを完全に決裂させればよいではないか」ということ。
それまでお寺を追い出されたら行くところが無いので仕方なく准如一派に従っていた教如一派も、新しい寺が出来たら安心して袂を分かって出てきます。そして、ひとつにまとまっていれば100の力を出せる集団でも、二つに割れてしまうと50・50どころか40・40の力にそがれてしまう。しかも、二つのうち一つは徳川のシンパになってくれますから、家康にとっては一石で二鳥も三鳥も落とせる作戦であったわけです。さらにもうひとつ、家康の頭脳明晰さを表す仕掛けがあるのです。
本願寺分割に関して徳川家康が仕掛けた「渋い」措置というのは、二つの寺を直線距離で約500メートルという、ごく近いところに配置したことです。これが新しいほうを江戸にでも持って行ってしまえば、遠く離れてお互い相手のことなどどうでもよくなったでしょう。しかし、二つを目と鼻の先に並べることにより、対立するもの同士が毎日顔をつき合わせるように仕向けたのです。これによって対立が続くようにした。対立の持続によって、外側に向かって出てきたら怖いエネルギーを内側へ内側へと向かわせたのです。この辺り、家康という人は政治家としては一流であったということになります。
これがまた面白いので、徳川家康というのは戦国大名同士の文字通りのサバイバルゲームを最後まで勝ち抜いた人ですが、その人が戦国大名とは言いながら、軍人というよりはむしろ政治家であったと。こうなると、最後に物を言うのは腕力ではなく脳みそという事なのでしょうか。
こうして本願寺分割の経緯を辿ってみますと、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三人の性格に関して面白い結論が出ます。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人といえば、有名なホトトギスの俳句があります。
信長⇒鳴かぬなら殺してしまえホトトギス
秀吉⇒鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス
家康⇒鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス
なるほど、信長は石山本願寺を攻めました。俳句の通りです。
秀吉は本願寺を味方に付けました。これも俳句の通りです。
ところが家康なのですが、相手の内部分裂に付けこんでこれを完全に決裂させるなどという狡猾な手段が「鳴くまで待とう」なんて長閑なものか?
どうもこの俳句は江戸時代に出来たので、家康に関しては眉に唾を付けたほうが良いようです。
まず基本的に、西本願寺は豊臣秀吉が創りました。そして東本願寺を創ったのは徳川家康です。ただ、厳密に言うと秀吉が創ったのは「本願寺」であって「西本願寺」ではありません。その時はまだ分裂していないわけですから。現在でも何の注釈も無く「本願寺」と言えばそれは「西」を指します。宗派としても「西」が「本願寺派」で「東」は「大谷派」です。
もう少し厳密に言うと、我々は簡単に「西本願寺」「東本願寺」と気安く言いますけど、実は現在、東側に「本願寺」というお寺は無いのです。正しくは「真宗本廟」という。ですから「西本願寺と東本願寺」があるのではなく、「本願寺と真宗本廟」があるのです。ところが、「西本願寺と東本願寺」という俗称がすっかり定着して、なまじ「真宗本廟」なんて言ったりしたら誰にも分からない。
もっとも、昭和62年までは東西とも本願寺を名乗ってましたから「西本願寺」「東本願寺」という区別に必然性はありました。
さて、西本願寺を創ったのは豊臣秀吉で東本願寺を創ったのは徳川家康であるというのを押えたところで、話が織田信長による大坂石山本願寺攻略に飛びます。
信長は何故そんなことをしたのか?
その当事、天下を取りたい者にとって重要な課題のひとつは社会的な影響力の大きい宗教勢力をどのように取り扱うか、ということでした。その課題に信長の出した答は「叩き潰す」というのもだったのです。ご存知のように信長は比叡山延暦寺も焼き討ちにしています。いちおう首尾一貫していると言っていいでしょう。ただ、「織田信長による大坂石山本願寺攻略」と一口で言ってしまえば簡単ですが、実際は元亀元年(1570)から天正8年(1580)までという、丸10年にわたる大作戦だったのです。宗教勢力相手に戦うのはそれほど大変だったということです。
石山本願寺は防戦虚しく信長に破れ、法主・顕如をはじめ浄土真宗の面々は紀州に流れて不遇を囲っていました。
そこへ、豊臣秀吉が天下を取ってから、突如として「お寺を潰された真宗の皆さんがお可愛そうなので私がお寺をお建ていたしましょう」と申し出たのです。もちろん、秀吉は本当に顕如はじめ真宗のメンバーが可愛そうだと思ったわけではありません。では何故、新しい寺を建てるなどと言い出したのか?
信長に本拠地を潰されたとはいえ、まだまだ浄土真宗の社会的影響力は大きかったということです。そこで秀吉の考えた対処法は信長とは正反対。懐柔策に出たわけです。
「まあ、今までは色々ありましたけど、これからは仲良くしましょうよ」ということですね。
つまり秀吉という人は「敵に回して怖い相手ならば、見方に付ければよいではないか」という発想の出来る人だったのです。
こうして天正19年(1591年)に秀吉から現在地を寄進されて本願寺となり、東西の分裂以後は「西本願寺」と呼ばれるようになりました。
で、当たり前ならこれで「めでたし、めでたし」になるはずなのですが、ご存知の通り、現在本願寺は東西に分かれています。一体何があったのか?
秀吉に新しいお寺を建ててもらった浄土真宗の面々は顕如の死後、派閥争いを起こします。当たり前なら大坂石山本願寺攻防戦を戦った功労者である教如が後継者になるはずなのですが、ここで弟の准如を後継者にしようという一派が現れて教如が敗れたのです。この勝敗に関しては秀吉が「顕如の遺言」を持ち出して裁定をしたのですが、その遺言書というのがどうも胡散臭い。「武闘派」教如を排斥したいという秀吉の意図が見え隠れします。
しかし、この辺りが面白いもので、信長に本拠地を潰されて紀州で不遇を囲っていた時(貧乏だったのではないかと思います)はみんな仲良く団結していたのです。それが秀吉さんに大きなお寺を建ててもらって、生活が楽になったとたんに派閥争い。まあ、現代でも似たような話はあるでしょう。
さて、教如一派も内心では不満があるものの、お寺を追い出されたら行くところがありませんから仕方なく准如一派に従っていた。ところが、関が原の合戦が終って2年後の慶長7年(1602)、今度は徳川家康が「無理矢理隠居させられた教如様がお可愛そうなので私がお寺をお建て致しましょう」と言って建てたのが東本願寺です。もちろん、家康も本気で教如が可愛そうなどと思っていたわけではありません。では、どのような意図があったのか。
家康にしてみれば関が原では勝ちました。しかし豊臣家はまだ存在し、豊臣シンパの大名もたくさんいます。この状況で家康にとって一番怖いのは、豊臣家が本願寺と手を組んで共同作戦で徳川に対抗してくることです。家康にとって一向一揆の凄さは忘れようも無かったはずですね。
そこで家康が考えたのは、「本願寺は内部で二派に別れている。ならばこれを完全に決裂させればよいではないか」ということ。
それまでお寺を追い出されたら行くところが無いので仕方なく准如一派に従っていた教如一派も、新しい寺が出来たら安心して袂を分かって出てきます。そして、ひとつにまとまっていれば100の力を出せる集団でも、二つに割れてしまうと50・50どころか40・40の力にそがれてしまう。しかも、二つのうち一つは徳川のシンパになってくれますから、家康にとっては一石で二鳥も三鳥も落とせる作戦であったわけです。さらにもうひとつ、家康の頭脳明晰さを表す仕掛けがあるのです。
本願寺分割に関して徳川家康が仕掛けた「渋い」措置というのは、二つの寺を直線距離で約500メートルという、ごく近いところに配置したことです。これが新しいほうを江戸にでも持って行ってしまえば、遠く離れてお互い相手のことなどどうでもよくなったでしょう。しかし、二つを目と鼻の先に並べることにより、対立するもの同士が毎日顔をつき合わせるように仕向けたのです。これによって対立が続くようにした。対立の持続によって、外側に向かって出てきたら怖いエネルギーを内側へ内側へと向かわせたのです。この辺り、家康という人は政治家としては一流であったということになります。
これがまた面白いので、徳川家康というのは戦国大名同士の文字通りのサバイバルゲームを最後まで勝ち抜いた人ですが、その人が戦国大名とは言いながら、軍人というよりはむしろ政治家であったと。こうなると、最後に物を言うのは腕力ではなく脳みそという事なのでしょうか。
こうして本願寺分割の経緯を辿ってみますと、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三人の性格に関して面白い結論が出ます。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人といえば、有名なホトトギスの俳句があります。
信長⇒鳴かぬなら殺してしまえホトトギス
秀吉⇒鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス
家康⇒鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス
なるほど、信長は石山本願寺を攻めました。俳句の通りです。
秀吉は本願寺を味方に付けました。これも俳句の通りです。
ところが家康なのですが、相手の内部分裂に付けこんでこれを完全に決裂させるなどという狡猾な手段が「鳴くまで待とう」なんて長閑なものか?
どうもこの俳句は江戸時代に出来たので、家康に関しては眉に唾を付けたほうが良いようです。
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