8月になって今年も終戦記念日が近付いてきた。あっちこっちで「戦争の惨禍」の話が繰り広げられるのだろうが、その中で今でもなかったことにされているのが京都の空襲である。
「京都は空襲を受けなかった。アメリカが京都にある文化財の価値を認めたからである」というデタラメを訂正する本や記事はいくつも出ているのに、一向に改められる気配がない。
そんな状況で私がまたこの話を繰り返しても何が改善されるわけでもないだろうが、大事なことなので記しておく。
京都市内にアメリカが意図して爆撃をしたのは2回。昭和20年1月16日の馬町空襲と同年6月26日の西陣空襲である。
東山区馬町の空襲は昭和20年1月16日午後11時23分頃、B29一機が三重県境より滋賀県を経て京都市内に侵入し、市内上空を一周した後、東山区馬町上空で高性能爆弾3トンを投下した。
7歳の女児を含む41人が死亡、負傷者48人、被害家屋316戸。
一方西陣の空襲は6月26日の昼前、B29一機が1トン爆弾7発を投下した。北は上長者町、南は下立売、東は大宮、西は浄福寺の範囲の地域が被害を受けた。
即死43人を含む50人が死亡。重傷13人、軽傷53人。家屋全壊71戸、半壊84戸。7発のうち2発は不発だったらしい。
確かに東京や大阪の大空襲に比べたら微々たる被害かもしれない。しかし40〜50人の人が亡くなっているのだから無視は出来ないだろう。
人はよく「戦時中だったので被害状況が隠された」と言う。だから今でも「まぼろしの空襲」なのだと。
確かに、その当時は秘匿されたかもしれないが、戦後になって公開されている。戦時中でもないのに「京都に爆弾は落ちなかった」という伝説を守りたい人たちが今でも情報を「隠して」いるのではないのか。そんな人たちには戦時中の政府の悪口はいえないだろう。
この2回以外にも、3月19日に右京区春日、4月16日に右京区太秦、4月22日(不詳)、5月11日には上京区京都御所に爆弾が投下されているのだが、この4回は米軍に記録がないという。どうやら最初から京都を狙ったものではなく、他地域を攻撃したついでに落としたか、本来の目標値で投下しきれずに余った爆弾を捨てるために落としたらしい。
逆に考えると馬町と西陣は米軍に記録が残っているわけで、間違いなく始めから京都を狙った空襲であったということだ。
「文化財があったから京都は守られた」などというのは絵空事である。では何故京都にはほとんど空襲がなかったのかに関しては吉田守男の『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(朝日文庫)に詳しいので興味のある方は読んでいただきたい。
京都にも空襲があったという事実は決して隠されてきたわけではない。折に触れて指摘されている。にもかかわらず、伝説が修正されないのは何故だろうか。
ひとつには一過性の話題にしかならないという事情がある。
たとえばテレビで京都空襲の事実が紹介されてもその時だけなのである。酷い時は「京都にも空襲があった」という番組を放映したテレビ局が数年後には別の番組で「京都に空襲はなかった」という話をする。火事を消した後で放火するようなものである。
また「京都に空襲がなかった」というのは日本人にとって「嬉しい伝説」だという理由もあるだろう。
人間誰しも「ありふれたの真実」よりも「嬉しい伝説」のほうが好きなのである。個人のレベルでもそうだろう。都合の悪い誤解は訂正しようとするが、良い意味での誤解は「いやあ、まあ、そんなことは、あっはっは」と言葉を濁して否定も肯定もしないものである。
「優れた文化財を守るためにアメリカは京都に爆弾を落とさなかった」というのは美しい話といえよう。しかし、美しい花には棘があるように、美しすぎる話にも裏がある。
「京都に空襲はなかった」という伝説はアメリカにとって都合がいいだけでなく、国の安全保障を直視してこなかった昭和の日本にとっても都合が良かったのだと私は考えている。
「京都は空襲を受けなかった。アメリカが京都にある文化財の価値を認めたからである」というデタラメを訂正する本や記事はいくつも出ているのに、一向に改められる気配がない。
そんな状況で私がまたこの話を繰り返しても何が改善されるわけでもないだろうが、大事なことなので記しておく。
京都市内にアメリカが意図して爆撃をしたのは2回。昭和20年1月16日の馬町空襲と同年6月26日の西陣空襲である。
東山区馬町の空襲は昭和20年1月16日午後11時23分頃、B29一機が三重県境より滋賀県を経て京都市内に侵入し、市内上空を一周した後、東山区馬町上空で高性能爆弾3トンを投下した。
7歳の女児を含む41人が死亡、負傷者48人、被害家屋316戸。
一方西陣の空襲は6月26日の昼前、B29一機が1トン爆弾7発を投下した。北は上長者町、南は下立売、東は大宮、西は浄福寺の範囲の地域が被害を受けた。
即死43人を含む50人が死亡。重傷13人、軽傷53人。家屋全壊71戸、半壊84戸。7発のうち2発は不発だったらしい。
確かに東京や大阪の大空襲に比べたら微々たる被害かもしれない。しかし40〜50人の人が亡くなっているのだから無視は出来ないだろう。
人はよく「戦時中だったので被害状況が隠された」と言う。だから今でも「まぼろしの空襲」なのだと。
確かに、その当時は秘匿されたかもしれないが、戦後になって公開されている。戦時中でもないのに「京都に爆弾は落ちなかった」という伝説を守りたい人たちが今でも情報を「隠して」いるのではないのか。そんな人たちには戦時中の政府の悪口はいえないだろう。
この2回以外にも、3月19日に右京区春日、4月16日に右京区太秦、4月22日(不詳)、5月11日には上京区京都御所に爆弾が投下されているのだが、この4回は米軍に記録がないという。どうやら最初から京都を狙ったものではなく、他地域を攻撃したついでに落としたか、本来の目標値で投下しきれずに余った爆弾を捨てるために落としたらしい。
逆に考えると馬町と西陣は米軍に記録が残っているわけで、間違いなく始めから京都を狙った空襲であったということだ。
「文化財があったから京都は守られた」などというのは絵空事である。では何故京都にはほとんど空襲がなかったのかに関しては吉田守男の『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(朝日文庫)に詳しいので興味のある方は読んでいただきたい。
京都にも空襲があったという事実は決して隠されてきたわけではない。折に触れて指摘されている。にもかかわらず、伝説が修正されないのは何故だろうか。
ひとつには一過性の話題にしかならないという事情がある。
たとえばテレビで京都空襲の事実が紹介されてもその時だけなのである。酷い時は「京都にも空襲があった」という番組を放映したテレビ局が数年後には別の番組で「京都に空襲はなかった」という話をする。火事を消した後で放火するようなものである。
また「京都に空襲がなかった」というのは日本人にとって「嬉しい伝説」だという理由もあるだろう。
人間誰しも「ありふれたの真実」よりも「嬉しい伝説」のほうが好きなのである。個人のレベルでもそうだろう。都合の悪い誤解は訂正しようとするが、良い意味での誤解は「いやあ、まあ、そんなことは、あっはっは」と言葉を濁して否定も肯定もしないものである。
「優れた文化財を守るためにアメリカは京都に爆弾を落とさなかった」というのは美しい話といえよう。しかし、美しい花には棘があるように、美しすぎる話にも裏がある。
「京都に空襲はなかった」という伝説はアメリカにとって都合がいいだけでなく、国の安全保障を直視してこなかった昭和の日本にとっても都合が良かったのだと私は考えている。
5469-240807-
写真/画像検索
関連コラム
谷口 年史 最新のコラム……
- 「鉄輪(かなわ)の井戸」にちょっと寄り道
〜冥界編ハイライトは続く、どこまで続く?〜 - 地獄八景へようこそ(その4)
〜地獄の底にあるものは?〜 - 地獄八景へようこそ(その3)
〜嘘つきと邪悪な考えの末路〜 - 地獄八景へようこそ(その2)
〜オプショナルツアーはさらに下の地獄を行く〜 - 地獄八景へようこそ(その1)
〜冥界編オプショナルツアーへのご招待〜