今年の大河ドラマは「平清盛」だが、当然そのドラマにも直実さんが登場するだろう。で、『平家物語』などでは熊谷直実といえば平敦盛を討った武将として結構「高潔」な描かれ方をしているようである。而してその実体は?
実は直実さんは元々源氏の一党にいた。それが平治の乱が起きた平治元年(1059)同僚から侮辱を受けたというのを口実に源氏と袂を分かって平家の側に来たのである。この乱を鎮圧して政権を掌握したのが平清盛だから、直実さんはちゃっかり勝ち組に残ったことになる。
その後、いよいよ源平の争乱が始まった。
治承4年(1180)8月17日、石橋山の戦い。この時、直実さんは平家の側にいて「頼朝をやっつけろー」とやっていたわけである。この戦いで頼朝は破れ、梶原景時に見逃してもらったおかげで命が助かったのは有名な話。歴史を変えた「温情」であった。
その年の内に頼朝はリターンマッチを挑む。同年10月20日、富士川の戦が勃発。というと聞こえはいいのだが、この日の夜、平家側に奇襲をかけるべく夜間行軍していた源氏の軍隊が、たまたま水鳥がねぐらにしていた場所に足を突っ込んでしまったため、何百羽という鳥が一斉に羽ばたき、その音を聞いた平家の軍隊が源氏軍が攻めてきたのと勘違いしてみんな逃げてしまったのである。これも有名な話。
で、恐らくこの事件がきっかけになったのだろう。直実さんは平家と袂を分かって源氏方に戻ってきたのだった。「ぼくちゃん、元々こっちの側にいたんだからさあ」というところだろうか。出戻りである。
この後、直実さんは源氏の陣営を転々とする。宇治川の戦いでは範頼の軍隊にいて、一の谷の戦いでは義経の軍隊にいたというふうに。前線にいてるので、やはりいきなり戻ってきたため、一番危ないところにいてなければ信用してもらえなかったのかもしれない。
この、源氏の陣営を転々としていた時期のことが『平家物語』などでは美化して書かれているということだろう。
ご存知のように、この動乱は源氏の勝利に終ったので、直実さんは再び勝ち組に残ったことになる。
しかし、この人の人生遍歴はこれから先がもっと凄い。
源平の動乱も終った文治元年(1185)鶴岡八幡宮で流鏑馬が行われた。この時、直実さんが仰せつかった役目というのが的を立てる係り。ところが、「こんな役目は嫌だ」と直実さんは当日すっぽかし。無断欠勤で所領を取り上げられてしまった。
普通ならこれでおしまいなのだが、直実さんはへこたれません。久下直光という武将の領地は熊谷家のものだという裁判を起こす。それが今で言う最高裁まで行って、源頼朝の前で双方が権利の主張をした。で、裁判の結果、建久3年(1192)に出た判決というのが、直実さん敗訴。訴えは認められなかったのである。この時「何でやねん!」と逆上した直実さんは一件書類を鷲づかみにすると、頼朝めがけて投げつけ、そのまま出奔。行方不明になりました。
当たり前なら、今度こそこれで一巻の終わりなのだが、直実さんはへこたれません。細かな紆余曲折は分かりませんが、何と浄土宗の開祖である法然上人と一緒に旅をしているのが分かった。その後鎌倉に舞い戻り、臆面も泣く源頼朝に対面を申し込むと、これまた何と、頼朝はそれを受け入れた。3年ぶりで頼朝と再会した直実さんは、何ら悪びれることなく、頼朝相手に仏の道を得々と解いた由。
でも、頼朝って、良い人だったんですね。
その後、直実さんは京都へやって来たのである。そして建永元年(1206)に「自分は来年2月10日に死ぬ」と予言する。「おお、これはお釈迦様から来迎のお告げがあったに違いない」とみんな大喜びでもてはやしました。
そしてついに自分で死を予言した当日、「今日往生する予定だったが、それは延期する」と発表したのでした。そして京都中の物笑いの種になったと。
熊谷直実という人はこういう人だったのである。
さて、豊国神社のすぐ近くに「烏寺」がある。
写真にあるように、瓦の一部が烏のデザインになっているところに往時の伝説を偲ばせる。
何故烏かというと、専定という僧侶がここで休んでいると、二羽のカラスがやってきて「熊谷直実が今日、極楽往生する」と予言をした。その日、実際に直実が死んだという。これが京都で評判になったらしい。
直実さん本人は自分が予言した死ぬ日を延期したのだが、烏が予言した日にはちゃんと死んだ。烏のほうが有難味がある?
当事、この「予言の延期」はかなり有名だったに違いない。そこで、現実に直実さんが死んだ後、誰言うとも無く「烏が予言していた」という話が出て来たのではないかな、と思ったりもしている。
烏寺のほかにも金戒光明寺には蓮生坊こと熊谷直実の住居跡だという熊谷堂があり、遺品が伝わっている。
さて、今年の大河ドラマでは熊谷直実はどのような扱いになるのだろうか。それとも出てこないのかな。
実は直実さんは元々源氏の一党にいた。それが平治の乱が起きた平治元年(1059)同僚から侮辱を受けたというのを口実に源氏と袂を分かって平家の側に来たのである。この乱を鎮圧して政権を掌握したのが平清盛だから、直実さんはちゃっかり勝ち組に残ったことになる。
その後、いよいよ源平の争乱が始まった。
治承4年(1180)8月17日、石橋山の戦い。この時、直実さんは平家の側にいて「頼朝をやっつけろー」とやっていたわけである。この戦いで頼朝は破れ、梶原景時に見逃してもらったおかげで命が助かったのは有名な話。歴史を変えた「温情」であった。
その年の内に頼朝はリターンマッチを挑む。同年10月20日、富士川の戦が勃発。というと聞こえはいいのだが、この日の夜、平家側に奇襲をかけるべく夜間行軍していた源氏の軍隊が、たまたま水鳥がねぐらにしていた場所に足を突っ込んでしまったため、何百羽という鳥が一斉に羽ばたき、その音を聞いた平家の軍隊が源氏軍が攻めてきたのと勘違いしてみんな逃げてしまったのである。これも有名な話。
で、恐らくこの事件がきっかけになったのだろう。直実さんは平家と袂を分かって源氏方に戻ってきたのだった。「ぼくちゃん、元々こっちの側にいたんだからさあ」というところだろうか。出戻りである。
この後、直実さんは源氏の陣営を転々とする。宇治川の戦いでは範頼の軍隊にいて、一の谷の戦いでは義経の軍隊にいたというふうに。前線にいてるので、やはりいきなり戻ってきたため、一番危ないところにいてなければ信用してもらえなかったのかもしれない。
この、源氏の陣営を転々としていた時期のことが『平家物語』などでは美化して書かれているということだろう。
ご存知のように、この動乱は源氏の勝利に終ったので、直実さんは再び勝ち組に残ったことになる。
しかし、この人の人生遍歴はこれから先がもっと凄い。
源平の動乱も終った文治元年(1185)鶴岡八幡宮で流鏑馬が行われた。この時、直実さんが仰せつかった役目というのが的を立てる係り。ところが、「こんな役目は嫌だ」と直実さんは当日すっぽかし。無断欠勤で所領を取り上げられてしまった。
普通ならこれでおしまいなのだが、直実さんはへこたれません。久下直光という武将の領地は熊谷家のものだという裁判を起こす。それが今で言う最高裁まで行って、源頼朝の前で双方が権利の主張をした。で、裁判の結果、建久3年(1192)に出た判決というのが、直実さん敗訴。訴えは認められなかったのである。この時「何でやねん!」と逆上した直実さんは一件書類を鷲づかみにすると、頼朝めがけて投げつけ、そのまま出奔。行方不明になりました。
当たり前なら、今度こそこれで一巻の終わりなのだが、直実さんはへこたれません。細かな紆余曲折は分かりませんが、何と浄土宗の開祖である法然上人と一緒に旅をしているのが分かった。その後鎌倉に舞い戻り、臆面も泣く源頼朝に対面を申し込むと、これまた何と、頼朝はそれを受け入れた。3年ぶりで頼朝と再会した直実さんは、何ら悪びれることなく、頼朝相手に仏の道を得々と解いた由。
でも、頼朝って、良い人だったんですね。
その後、直実さんは京都へやって来たのである。そして建永元年(1206)に「自分は来年2月10日に死ぬ」と予言する。「おお、これはお釈迦様から来迎のお告げがあったに違いない」とみんな大喜びでもてはやしました。
そしてついに自分で死を予言した当日、「今日往生する予定だったが、それは延期する」と発表したのでした。そして京都中の物笑いの種になったと。
熊谷直実という人はこういう人だったのである。
さて、豊国神社のすぐ近くに「烏寺」がある。
写真にあるように、瓦の一部が烏のデザインになっているところに往時の伝説を偲ばせる。
何故烏かというと、専定という僧侶がここで休んでいると、二羽のカラスがやってきて「熊谷直実が今日、極楽往生する」と予言をした。その日、実際に直実が死んだという。これが京都で評判になったらしい。
直実さん本人は自分が予言した死ぬ日を延期したのだが、烏が予言した日にはちゃんと死んだ。烏のほうが有難味がある?
当事、この「予言の延期」はかなり有名だったに違いない。そこで、現実に直実さんが死んだ後、誰言うとも無く「烏が予言していた」という話が出て来たのではないかな、と思ったりもしている。
烏寺のほかにも金戒光明寺には蓮生坊こと熊谷直実の住居跡だという熊谷堂があり、遺品が伝わっている。
さて、今年の大河ドラマでは熊谷直実はどのような扱いになるのだろうか。それとも出てこないのかな。
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