伏見街道を行く(その3)
    〜レトロ酒屋から稲荷まで〜

【言っておきたい古都がある・24】 by 谷口 年史

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 さらに伏見街道を南に向けて歩き出した私であるが、またもや酒屋を見つけた。酒飲みの目にはスッと入ってくるのだ。
 ここも歴史の香る店である。左右の自動販売機がなければ大正ロマンの時代にタイムスリップしたのではないかと思うだろう。
 こういう「古き良き店」というのは、えてして維持費が嵩んだりする。純粋な経済合理性から言えば潰して建替えた方が経費は安上がり、なんてのもザラにある。
 この佇まいを残しているのはここのお店の人の心意気ではあるまいか。

 目を転じればお豆腐屋さん。
 今では豆腐もスーパーでパック入りのものを買うのが主流ではないかと思うが、こうして昔ながらに朝早くかに起きて豆腐を作っているお店も健在である。
 森嘉のような有名店ではなく、ごく普通の、町内のお豆腐屋さんが商売をしているのである。
 ちょっと覗いてみると、お婆さんが店番をしていた。

 さらに進めば魚屋さん。これもレトロである。仕出もやっているみたいだった。
 酒屋といい魚屋といい、昔はこんな店がズラーッと並んでいたのだろうなあ。

 感慨にふけりながら歩いていると田中神社がある。伏見稲荷大社の境外摂社である。
 田中神社というのは京都市内の他の場所にもあるので混乱しそうだ。
 
 今に伝わるエピソード。
 和泉式部が、伏見稲荷に参詣し、この田中神社のあたりで時雨に遭い困っていると、田を刈る童が着ていた蓑を貸した。
 翌日、式部が外の方を眺めていると、大きな子が文を持って佇んでいた。その理由を尋ねると文を差し出した。
 文を読んでみると、

「時雨する 稲荷の山の 紅葉は 青かりしより 思ひ染めてき」

と恋心を告白していた。
 この「青かりし」というのは、「蓑」のことを「あお」とも言ったので「あお(蓑)借りし」と掛詞になっています。
 つまり、前の日に式部に蓑を貸してくれた童がラブレターを寄こしたのですね。
 式部はいじらしいく思い、童を奥へ呼び入れたという。

 鎌倉時代の『古今著聞集』巻五に見える話です。
 「奥へ呼び入れた」ということは、お分かりですね、ラブラブに及んだのですよ。

 そのような妄想をたくましくしながら、さらに歩けば十王堂。
 ここには冥界の10人の裁判官の像があったとか。
 正しいお寺の名前は金龍山極楽寺で、浄土宗禅林寺派である。
 しかし、冥界の裁判官ゆかりのお寺の名前が極楽寺というのも、判決に手心を加えてもらえそうな気がする。

 あの世の裁きを思い浮かべながら歩いていると、突然「おこぜ」という看板が目に付いた。
 総菜屋さんのようである。珍しい屋号だったので思わず写真を撮ったら、闊達でモダンなお婆さん(この表現は失礼かな?)が出てきて「何やったん?」と訊いてきた。

「いえ、ちょっと写真を撮らせてもらいました」
「何で?」
「珍しい名前だったので」
「ふ〜ん」

 というわけでさらに歩くと、伏見人形の店がある。
 大昔はこのあたりで焙烙を作っていたらしい。
 ところが大坂方面から安い製品が大量に入ってきたので産業は存亡の危機に瀕した。
 このとき、地元の人たちは「安い外部商品の流入反対」と叫ぶのではなく、より付加価値の高い物を作ろうと頑張って伏見人形が生れたのである。
 いたずらに既得権益を守るのではなく、新たなものに挑戦した伏見の先人たちは逞しかった。

 さらに歩けば焼き芋屋さん。まだ残っているのだ。100円ショップで添加物満載のお菓子が買える昨今、自然に近い焼き芋なんて割高なのにちゃんと買う人がいるのである。
 そういえば、昔は「芋・蛸・南京」が女の人の好物だと言われていたなあ。

 トウガラシ屋さんもある。色々と調合してくれるのだろうか。

 おかき。これも100円ショップでいくらでも買えるのに、昔ながらの量り売りが行われている。立派だ。
 ふたば。町内の人たちに愛されるお菓子屋さんというのは、かつてはどんな地域にもあったのだと思う。

 さらに歩けばついに伏見稲荷に到着である。参道には稲荷寿司やら雀の焼き鳥やらを売る店があるのはお馴染みの光景である。
 私もちょっと一服。

 ということで、続きは来週。

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