前回のお話で方広寺七不思議の事を少し書いたら、「それはどんなものですか」というメッセージをいただきました。
そこで今回は方広寺七不思議を紹介する次第。
七不思議といえば知恩院が有名です。しかし江戸時代には京都中に七不思議があふれていて、「洛中七不思議」や「伏見街道七不思議」の他、清水寺、八坂神社、伏見稲荷、上賀茂神社、下鴨神社、東福寺、金閣寺、建仁寺、東寺、妙心寺、比叡山、大徳寺、西本願寺、黒谷、堀川、西陣、三十三間堂などにも七不思議がありました。よくまあこれだけ「不思議」があるものだと、そっちのほうが不思議である。
これはどうやら観光客を集めようとした「政策」として七不思議を作ったらしい。ただ涙ぐましいのは、七不思議といいながらネタが無かったのか、七つ揃っていない所もある。お気の毒としか言いようがない。
そこで方広寺七不思議だが、第1番目は「烏寺」でである。
写真にあるように、瓦の一部が烏のデザインになっているところに往時の伝説を偲ばせるものがある。
何故烏かというと、専定という僧侶がここで休んでいると、二羽のカラスがやってきて「熊谷直実が今日、極楽往生する」と予言をした。その日、実際に直実が死んだという。これが京都で評判になったらしい。ただ、この話の面白みは熊谷直実という人が実際はどのような人であったのかが分かっていないと理解しにくいと思う。
で、その熊谷直実なのだが、この連載の11回目で「あっぱれ熊谷直実一代記」というのを書いているので、そちらを参照していただければ幸いである。
直実さん本人は自分が予言した死ぬ日を延期したが、烏が予言した日にはちゃんと死んだ。
烏のほうが有難味がある?
当事、この「予言の延期」はかなり有名だったに違いない。そこで、現実に直実さんが死んだ後、誰言うとも無く「烏が予言していた」という話が出て来たのではないかな、と思ったりもしている。
方広寺七不思議の2番目は「石川五右衛門の隠れ家」。写真は現在の豊国神社だが、かつてこの近くに大泥棒石川五右衛門の隠れ家があったという。ただし、「それはどこですか」と尋ねても、「分かりません」という答しかかえって来ません。そりゃ、「分からない」から「隠れ家」なのであって、分かっていたら意味が無い。一説に寄れば質屋さんだったともされていのだが。。。
ところで、石川五右衛門といえば南禅寺の山門で京都の町を眺め回して「絶景かな、絶景かな」と言ったことになっているが、五右衛門が生きていた時代には南禅寺には山門は無かった。
また、最期は釜茹でにされたようだが、この「釜茹で」というのは、お湯が煮立っているのではなく、油である。煮えたぎった油の中に放り込まれると。つまり、五右衛門は人間唐揚げにされてしまったのである。こんなものを想像すると唐揚げが食べられなくなってしまいますねえ。唐揚げは鶏肉にしておきましょう。
方広寺七不思議の3番目は「耳塚」です。
これは前回で言及しました。本当は御影塚(みえづか)ではないのか、というお話。
これが「七不思議」に入っているということは、耳塚というのは「本当は何が埋まっているのか」という疑問が江戸時代にもあったということ。
是非発掘調査をして真相を明らかにしてほしいものである。
さて、方広寺七不思議の4番目。
それは大坂の陣のきっかけになった方広寺の梵鐘の内側に浮かぶ淀君の影。浮かぶのだそうである。
実は私も見せてもらったことがあるが、「言われてみればそのようでもある」というこの手の話の定番的結論になってしまった。本心からそうだと思って見れば、必ず見えるのだと思います。
ところでこの鐘、かつては何時でも誰にでも撞かせてくれた。鐘楼の中でお守りを買えばよかった。それが最初は100円だったのが、「撞きたい」という人が多くなって、200円にしてもたくさん来る、300円にしてもたくさん来る。ついに500円になっても「撞きたい」という人が一杯来て、とうとう朝から晩まで鳴りっぱなし。それで近所からクレームが来た。まあ、仕方ないですね。
今は除夜の鐘として撞かれるのみ。
方広寺七不思議の5番目は「泣き石」。
写真の通り、かつての方広寺の石垣なのだが、お寺は小さくなっても石垣はそのまま残っている。国立博物館までずっと続いているということは、今の博物館の敷地もかつては方広寺の境内だったということ。大きかったんですね。この石垣の石が「泣き石」なのである。
では誰が泣いたのか? 課税や労役に苦しめられた民衆? いいえ、そうではありません。
泣いたのは大名なのです。
ガイドブックの中には、この石垣用の石は各大名が「寄進した」としているのもあるようですが、「寄進した」のではありません。「寄進させられた」のです。誰も秀吉の意向には逆らえなかった。そしてどの大名も、わざわざ四国で切り出して本土まで運び、川で伏見まで運んで、さらに最期はV字型の橇に乗せて人足がロープで引っ張って東山のこの場所まで運んできた。この費用が莫大で、どの大名も「金が無くなる」と泣いたそうである。
世界中に「泣いた」というエピソードの史跡はたくさんあります。「嘆きの壁」とか「涙の泉」とか。しかし、それらは一般の民衆が泣いたわけで、支配階級の側が泣いたという史跡は世界中探してもここだろう。
よく歴史で「民衆は虐げられていた」と言いたがる方々には申し訳ないですが、この巨大な石が運び込まれてくると、泣いてる大名を尻目に、京都の人たちはワッショイワッショイのお祭り騒ぎだった由。
方広寺七不思議の6番目は「崩れ門」。
今はなくなったが、かつて七条と大和大路の交差点に「崩れ門」と呼ばれた門があった。崩れてもいないのに「崩れ門」で、だから「不思議」だったということなのだが、これは答が分かっている。
正しくは「九頭竜門」だったのである。それが訛って「崩れ門」になってしまった。
で、その門だが、実際には崩れることなく、東寺に移築されたとのこと。
方広寺七不思議の最後、7番目は「赤牛の影」。
ある日、商人が赤牛に荷物を引かせて智積院の前まで来ると、門前で牛がへたり込んでしまった。この商人が乱暴な奴で、牛に「コラーッ、何をしとるかあ!」と言って鞭で叩きまくったら、突如その牛が爆発して体の内と外が入れ替わり、智積院の白壁に張り付いてしまった。その後、その壁をどんなに丁寧に洗っても、また上から塗りなおしても、壁に赤牛の姿が浮かび上がってきたと言う。
最後はちょっとグロい話になってしまいました。
恐らく、お寺の前で牛がへたり込んだのは事実なのだろう。そして乱暴な商人が鞭で牛を叩いたのも事実だと思う。
で、実際はそこで牛が死んでしまったと。
「お前は寺の前で何ちゅう事するんや」という話に尾ひれがついて、この七不思議に加わったのだと思う。
ということで、方広寺七不思議はこれでおしまい。
【参考参照】
あっぱれ熊谷直実一代記
http://kyoto-brand.com/read_column.php?cid=5471
後陽成天皇と朝鮮出兵
http://kyoto-brand.com/read_column.php?cid=5492
京都の大仏物語
http://kyoto-brand.com/read_column.php?cid=5481
【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
そこで今回は方広寺七不思議を紹介する次第。
七不思議といえば知恩院が有名です。しかし江戸時代には京都中に七不思議があふれていて、「洛中七不思議」や「伏見街道七不思議」の他、清水寺、八坂神社、伏見稲荷、上賀茂神社、下鴨神社、東福寺、金閣寺、建仁寺、東寺、妙心寺、比叡山、大徳寺、西本願寺、黒谷、堀川、西陣、三十三間堂などにも七不思議がありました。よくまあこれだけ「不思議」があるものだと、そっちのほうが不思議である。
これはどうやら観光客を集めようとした「政策」として七不思議を作ったらしい。ただ涙ぐましいのは、七不思議といいながらネタが無かったのか、七つ揃っていない所もある。お気の毒としか言いようがない。
そこで方広寺七不思議だが、第1番目は「烏寺」でである。
写真にあるように、瓦の一部が烏のデザインになっているところに往時の伝説を偲ばせるものがある。
何故烏かというと、専定という僧侶がここで休んでいると、二羽のカラスがやってきて「熊谷直実が今日、極楽往生する」と予言をした。その日、実際に直実が死んだという。これが京都で評判になったらしい。ただ、この話の面白みは熊谷直実という人が実際はどのような人であったのかが分かっていないと理解しにくいと思う。
で、その熊谷直実なのだが、この連載の11回目で「あっぱれ熊谷直実一代記」というのを書いているので、そちらを参照していただければ幸いである。
直実さん本人は自分が予言した死ぬ日を延期したが、烏が予言した日にはちゃんと死んだ。
烏のほうが有難味がある?
当事、この「予言の延期」はかなり有名だったに違いない。そこで、現実に直実さんが死んだ後、誰言うとも無く「烏が予言していた」という話が出て来たのではないかな、と思ったりもしている。
方広寺七不思議の2番目は「石川五右衛門の隠れ家」。写真は現在の豊国神社だが、かつてこの近くに大泥棒石川五右衛門の隠れ家があったという。ただし、「それはどこですか」と尋ねても、「分かりません」という答しかかえって来ません。そりゃ、「分からない」から「隠れ家」なのであって、分かっていたら意味が無い。一説に寄れば質屋さんだったともされていのだが。。。
ところで、石川五右衛門といえば南禅寺の山門で京都の町を眺め回して「絶景かな、絶景かな」と言ったことになっているが、五右衛門が生きていた時代には南禅寺には山門は無かった。
また、最期は釜茹でにされたようだが、この「釜茹で」というのは、お湯が煮立っているのではなく、油である。煮えたぎった油の中に放り込まれると。つまり、五右衛門は人間唐揚げにされてしまったのである。こんなものを想像すると唐揚げが食べられなくなってしまいますねえ。唐揚げは鶏肉にしておきましょう。
方広寺七不思議の3番目は「耳塚」です。
これは前回で言及しました。本当は御影塚(みえづか)ではないのか、というお話。
これが「七不思議」に入っているということは、耳塚というのは「本当は何が埋まっているのか」という疑問が江戸時代にもあったということ。
是非発掘調査をして真相を明らかにしてほしいものである。
さて、方広寺七不思議の4番目。
それは大坂の陣のきっかけになった方広寺の梵鐘の内側に浮かぶ淀君の影。浮かぶのだそうである。
実は私も見せてもらったことがあるが、「言われてみればそのようでもある」というこの手の話の定番的結論になってしまった。本心からそうだと思って見れば、必ず見えるのだと思います。
ところでこの鐘、かつては何時でも誰にでも撞かせてくれた。鐘楼の中でお守りを買えばよかった。それが最初は100円だったのが、「撞きたい」という人が多くなって、200円にしてもたくさん来る、300円にしてもたくさん来る。ついに500円になっても「撞きたい」という人が一杯来て、とうとう朝から晩まで鳴りっぱなし。それで近所からクレームが来た。まあ、仕方ないですね。
今は除夜の鐘として撞かれるのみ。
方広寺七不思議の5番目は「泣き石」。
写真の通り、かつての方広寺の石垣なのだが、お寺は小さくなっても石垣はそのまま残っている。国立博物館までずっと続いているということは、今の博物館の敷地もかつては方広寺の境内だったということ。大きかったんですね。この石垣の石が「泣き石」なのである。
では誰が泣いたのか? 課税や労役に苦しめられた民衆? いいえ、そうではありません。
泣いたのは大名なのです。
ガイドブックの中には、この石垣用の石は各大名が「寄進した」としているのもあるようですが、「寄進した」のではありません。「寄進させられた」のです。誰も秀吉の意向には逆らえなかった。そしてどの大名も、わざわざ四国で切り出して本土まで運び、川で伏見まで運んで、さらに最期はV字型の橇に乗せて人足がロープで引っ張って東山のこの場所まで運んできた。この費用が莫大で、どの大名も「金が無くなる」と泣いたそうである。
世界中に「泣いた」というエピソードの史跡はたくさんあります。「嘆きの壁」とか「涙の泉」とか。しかし、それらは一般の民衆が泣いたわけで、支配階級の側が泣いたという史跡は世界中探してもここだろう。
よく歴史で「民衆は虐げられていた」と言いたがる方々には申し訳ないですが、この巨大な石が運び込まれてくると、泣いてる大名を尻目に、京都の人たちはワッショイワッショイのお祭り騒ぎだった由。
方広寺七不思議の6番目は「崩れ門」。
今はなくなったが、かつて七条と大和大路の交差点に「崩れ門」と呼ばれた門があった。崩れてもいないのに「崩れ門」で、だから「不思議」だったということなのだが、これは答が分かっている。
正しくは「九頭竜門」だったのである。それが訛って「崩れ門」になってしまった。
で、その門だが、実際には崩れることなく、東寺に移築されたとのこと。
方広寺七不思議の最後、7番目は「赤牛の影」。
ある日、商人が赤牛に荷物を引かせて智積院の前まで来ると、門前で牛がへたり込んでしまった。この商人が乱暴な奴で、牛に「コラーッ、何をしとるかあ!」と言って鞭で叩きまくったら、突如その牛が爆発して体の内と外が入れ替わり、智積院の白壁に張り付いてしまった。その後、その壁をどんなに丁寧に洗っても、また上から塗りなおしても、壁に赤牛の姿が浮かび上がってきたと言う。
最後はちょっとグロい話になってしまいました。
恐らく、お寺の前で牛がへたり込んだのは事実なのだろう。そして乱暴な商人が鞭で牛を叩いたのも事実だと思う。
で、実際はそこで牛が死んでしまったと。
「お前は寺の前で何ちゅう事するんや」という話に尾ひれがついて、この七不思議に加わったのだと思う。
ということで、方広寺七不思議はこれでおしまい。
【参考参照】
あっぱれ熊谷直実一代記
http://kyoto-brand.com/read_column.php?cid=5471
後陽成天皇と朝鮮出兵
http://kyoto-brand.com/read_column.php?cid=5492
京都の大仏物語
http://kyoto-brand.com/read_column.php?cid=5481
【参照リンクには、現在なくなったものがあるかもしれません。順次訂正してまいりますが、ご容赦ください。】
5493-241218-
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