京都の料理職人達 vol.2
【泉仙 大慈院店】 武藤 淳氏
精進料理に取り組み たどり着いた境涯とは
精進料理店[泉仙]が開店した。今でこそ、寺院内で料理を供す店は珍しくはないが、当時は画期的な試みだった。いわば同店は、精進料理に進取の気性で取り組んだ先駆者なのである。そんな料理人を父に持つ武藤淳氏は、現在、[株式会社 泉仙]の専務を務める料理人である。幼少時代から料理を作ることが好きだったという彼が料理界に進んだのは、当然の流れといえるだろう。ただ、精進料理人として足場を固めてからは葛藤の連続だったという。
肉も魚も使えないどころか、ニンニクやネギなども使用禁止。世界中の食材が何でも手に入る日本において、使うことのできる素材が限られている料理に取り組むことほど禁欲的なことはない。「料理人ですから、魚をさばきたいし肉も使いたい。ここにグジがあったらなぁ、と思うこともありますよ(笑)」と武藤氏は本音を漏らす。
だが、調理法に禁じ手はない。それが料理人の想像力をかきたてる。豆腐と山芋、湯葉、クルミを混ぜ込んだウナギの蒲焼、肉のかわりに湯葉でゴボウを巻いた八幡巻、柿の寒天で作ったマグロのお造り…。見た目と素材にこれほどギャップのある料理は、そうないだろう。しかも、味も日本料理と比べて遜色ない。それは、大豆を炒って挽き、ドリップしたものを出汁として使ったり、ポン酢にオレンジやレモンなどの西洋の素材を用いるといった、創意工夫の賜物だ。
武藤氏は、精進料理に対峙するたびに奥の深さを実感するという。その深度は、積み重ねてきた歴史の厚さと言い換えてもいい。そしてそこに、武藤氏が発案した、豆乳で作るホワイトソースやシャーベットといった精進料理らしからぬ献立がさらなる厚みを加えている。曰く、「昔の手法を守りつつ、新しいやり方に挑戦したい」。その欲求が、精進料理のイメージを更新し続ける原動力となっているのだろう。
武藤氏は言う。「私たちは、素材に頼ることができないんです」。その言葉に込められているのは苦悩ではない。あらゆる技を用いて、限られた食材から驚きと感動が湧き起こる一皿を生み出し続ける料理人の矜持だ。無いことを嘆かず、知恵と工夫でそこにあるものを最大限に活用することは、精進料理人だけに与えられた試練である以上に、愉しさでもあろう。そしてそれは仏知といえるかもしれない。精進料理に取り組むことこそ、精進である。何やら禅問答のようだが、精進料理人として生きる醍醐味は、そこにあるのかもしれない。
武藤氏は、精進料理に対峙するたびに奥の深さを実感するという。その深度は、積み重ねてきた歴史の厚さと言い換えてもいい。そしてそこに、武藤氏が発案した、豆乳で作るホワイトソースやシャーベットといった精進料理らしからぬ献立がさらなる厚みを加えている。曰く、「昔の手法を守りつつ、新しいやり方に挑戦したい」。その欲求が、精進料理のイメージを更新し続ける原動力となっているのだろう。
武藤氏は言う。「私たちは、素材に頼ることができないんです」。その言葉に込められているのは苦悩ではない。あらゆる技を用いて、限られた食材から驚きと感動が湧き起こる一皿を生み出し続ける料理人の矜持だ。無いことを嘆かず、知恵と工夫でそこにあるものを最大限に活用することは、精進料理人だけに与えられた試練である以上に、愉しさでもあろう。そしてそれは仏知といえるかもしれない。精進料理に取り組むことこそ、精進である。何やら禅問答のようだが、精進料理人として生きる醍醐味は、そこにあるのかもしれない。
武藤 淳 氏 むとう あつし
昭和36年(1961)、京都生まれ。「芽生会」会員、「魚菜組合」青年部会長。大阪の料理店で修行を積んだ後、[泉仙]で包丁を握る。お客との交流を好み、団体客には精進料理や鉄鉢のいわれを説明し、食した感想をお客から聴くという。「将来は、お客様一人ひとりのために料理を作っていきたい」と話す。
天地の恵みを重ね鉢に託して
明治4年(1871)、「泉竹」の屋号で精進料理・割烹料理の仕出し業を創業し、昭和33年(1958)に[株式会社 泉仙]を設立。昭和38年(1963)には、臨済宗大徳寺派の大本山、大徳寺の塔頭「大慈院」に店を構えた。
旬の薫りを味わう 季節の旨みを凝縮して膳へ
変身する食材 知恵と技で生む擬似料理
泉仙 大慈院店(いづせん だいじいんてん)
■京都市北区紫野大徳寺町大慈院内■075・491・6665
■11:00・16:00
■年末休
http://www.kyoto-izusen.com/
2008年5月号掲載
※当時の記事の為金額等に変更のおそれがありますのでご確認下さい。
※当時の記事の為金額等に変更のおそれがありますのでご確認下さい。